yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

愛おしく交感するモノローグ、ロバート・アシュレイの 『PRIVATE PARTS』

イメージ 1

Robert Ashley - The Park (Part 1)

                

ロバート・アシュレイROBERT ASHLEY(1930)、ケージ以後の作曲家も早や75歳である。歳月光陰矢・・・ということだ。若き日にその名に親しんだ人々が鬼籍に入ることが目につくようになってきた。さて以前に、このブログで本来は映像をともなっている彼の『AUTOMATIC WRITING』をとりあげたが、何せ肝心の映像がなく音盤の音だけのパフォーマンスというのはなんとも隔靴掻痒で片手落ちの感否めななく、多くの??のままの鑑賞と相成った。
もちろん今回の『PRIVATE PARTS』も同様作曲家本人の、目の前の情景から想起、連想されるモノローグが、緩や かなシンセサイザー奏でるドローン、流麗でメロディアスなピアノ、エキゾチックな瞑想さそうインドリズムのタブラなどをアンビエントにして延々と語られる。
A面は「The Park」、B面は「The Backyard」とタイトルされてい る。タイトルどおり、それぞれの情景を前にして想起される言葉がただ語られるだけ。自然風景を前にして木陰で椅子に座っている男が、あるいは室内から窓越しに見える風景を、窓に寄りかかり浮かんでは流れ行く想念に独白重ねる男が、静かに流れるメロディアスな音楽をバックに、目前の風景が視線の移動とともにゆっくりと流れてゆき、自然が人に語らせるがごとく、つぶやくように独白しているというような、映画にしばしば見るシーンを浮かべてもらえればおおよそが察せられることと思う。
映像を前にしてであれば、多くを語るまでもなくそうしたシーンがもつ余情するところはおおかた了解されるであろう。しかしこの『PRIVATE PARTS』が、もし、というのもこのアルバム には作品内容に関するコメントが一切ないという不明ゆえに言うのだが、純然たるサウンドパフォーマンスのみの作品ということであれば、これはいったい何か?といささか悩ませることとなる。これをどう了解すればいいのか?単純に言えば今在る自己の<生>に流れゆく想起の言葉が延々と独白される癒しのアンビエント・ミュージックといえなくもない。
しかしこんな安っぽい意図で制作パフォーマンスされているのだろうか。つねづねどうしてこうも西欧人は好むのかと思うほど、全体を貫く瞑想的なインドリズムのタブラと気恥ずかしくはないのかといいたくなるほどの美しすぎるシンセサイザー奏でる緩やかなメロディ。
しかし生物学者でもあった昭和天皇が≪雑草という名の草はない≫と言ったように記憶するが、命名される(関係付け)、あるいは名を知ることでその存在が身近な存在、自己世界の一部となることは確かなことだ。自己にとっては無きに等しい知らないで通り過ぎる存在(草)も、名を知っているがゆえに振り返り、愛おしく交感することもある。
ひとはアーティキュレーション(Articulation)することによって存在を有らしめ、自己の存在世界を形成する。区切りを刻むことによって秩序を、存在を、生成する。分節とは畢竟、意味の生成、秩序、存在の生成である。花が花たりえるのは、人がそれを花なる存在として存在一般(単に在るという事態)から分節するゆえであろう。この人間の能動的分節が介在するのでなければそれらはただの何の規定もない存在のままである。要するにその人にとっては無いに等しいということだ。
自然から意識をもつ受苦する存在として突き放された片割れの人間が、不安の原基の喪失した片割れを求め執拗に世界を存らしめようと言葉を発し続け、世界とともにあることで安らぎを願う愛おしいまでの哀しいモノローグと了解すれば、牽強付会ながら納得できなくはない。なんとも悩ましい一枚ではある。