yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

静謐のゆらぐ世界、モートン・フェルドマン 『False Relationships and the Extended Ending』 (1968)

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Morton Feldman's Viola In My Life

       

 ≪フェルドマン自身は、静かな音は彼が興味を引く唯一のものであると述べた。≫(WIKIPEDIA

かすかに放たれ、幽そけく消えゆく音達の生成と消滅の、それぞれ淡い境界に人の生誕と死を同定し、宙吊りにされた人の生の<無>の真実を静謐のうちに奏でるモートン・フェルドマン。意味も、存在もすべて静謐な世界に雲のごとく散りゆき霧のごとく消えゆく。自己というおぞましき存在を、在るか無きかの幽そけき響きへと静謐のうちに無化してゆき、安寧に身を横たえんとタナトスとの対話に静かにたたずむモートン・フェルドマン。モノトーンの静謐の世界は、かわたれに深まり行く闇でもあり、あかときやみに明けゆく闇でもある。静謐にゆらぐ境界域。消え入ることへのロマンティシズム、だが人は明確に終わりを終わることはできない。もちろん始まりを始めることもできない。宙吊りの存在でしかない人間には静謐のゆらぐ世界こそが本来であるのかもしれない。
モートン・フェルドマンMORTN FELDMAN『The Viola in My Life』(1970)、『False Relationships and the Extended Ending』(1968)


『雑音に関するヒポテーゼの試み』松岡正剛<遊>1008(1979)より抜粋


●人体から―――細胞が分裂する音にはじまり、血流音、心臓音、骨のきしみなど、人体は雑音に満ちている。この身体を「大いなる雑音楽器」たる宇宙に対峙させるとき、「人体=宇宙」の猛々しい等式が成立したのではないだろうか。

★人体に棲んでいる音は雑音ではない。それらは遥かなる原始の海の記憶函数にもとづいた周期音であったはずである。生気象学者たちはそこに体内が刻んでいる時計を発見した。この体内時計こそ、「周期的であって半結晶的な生命」であるわれわれを彼方の宇宙に近似させようとしている当のものではないか。


●リズムから―――パンクロックのリズムには、これまでのロックより極端に不自然で不快なものがある。身体でリズムをとることができない。にもかかわらず音楽はやはり成立する。音楽の逆エントロピーを暗中模索するかのように。

★音楽は生命現象の進化軸に沿っている。古典音楽はいまだ円錐対称的であったが、現代音楽はついに左右対称性をも崩してしまった。いま、デレク・ベイリーのギターは「完全なる無秩序」に向かう。エントロピーは増大する以外にない。


●破壊から―――紙を破る、ガラスを割る、モノを燃やす……破壊音はいつも雑音だ。しかも不可逆であることの潔さから響きが美しい。なぜか。

★ミヒャエル・バクーニンは「破壊しか創造の端緒になりえない」といった。ルネ・トムのカタストロフィ理論は、<破壊のトポロジー>が発見した美学でもあった。ミルクコーヒーはミルクとコーヒーには戻らない。ボルツマンとブリッジマンは自殺した。いまだ音楽家エントロピーに対抗していない。それで理由は充分だろう。


●量子から―――パンクロックをひきあいに出すまでもなく音はエネルギーの別称でもあった。エネルギーの最小値が量子定数でおさえられている限り、この世にまったき静寂はありえない。ディラックの<真空の海>にすら、マイナスの音粒子たちがひしめきあっている。

★(1)一般に物質の実在性は誤差および増幅の様式によって問われている。物質的誤差と知覚的増幅は、たえまなく増幅的物質と誤差的物質を微細な闇に生み落している。……(14)量子力学は信号を入力とみなし雑音を発生とみなすならわしにある。しかしこの貸借関係にはひとつの非可逆性がある。雑音を入力としたときには信号は生まれない。……(34)すなわち、余地は内側にもとめられる時にのみ、外延部で発見される場所である。『量子雑音事件』(遊7号)より。


●ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。

★山に入って山になり、海に入って海になる。仏に逢うては仏を切り。神に逢うては神を切る。われわれはヘテロジニアスなるものからホモジニアスなるものへ向かうとき、どうやらノイズを必要とするらしい。なんとホモセクシャルなラジオであること!