yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

小杉武久、スティーヴ・レイシー、高橋悠治のフリーパフォーマンス 『DISTANT VOICES』 (1975)

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この人がいれば必ずと言っていいほど、このような世界になるという人がいる。それほどまでに存在感が何かを指し示す。小杉武久はたぶんそのようなパフォーマーであるのだろう。過激な音楽無産者でありアナキストでありシャーマンであり、タオイストである。あの仙人のような風貌で、彼がヴァイオリンを奏で、ヴォイスパフォーマンスすればまずあのウェーブがかもす瞑想的ないざないに抵抗なく寄り添うこととなるだろう。だがそうしたウェーブ音を離れてのサウンドパフォーマンスであっても<気>の世界がなにかしら存在する。いつになくこのアルバム『DISTANT VOICES』(1975)のスティーヴ・レイシー(1934、ss)高橋悠治(1938)もグッドである。この両者がリラックスしてのいい面が出ているフリーインプロヴィゼーションといえるだろう。


松岡――フリーとランダムネスって違いますね。今はみんなフリーのうほうに行きすぎていて、「まったきランダムネス」というアナキズムはだんだん忘れつつある。小杉さんとかケージとかが維持していた世界はたんなる<フリー>ではない。ぼくはアナキズムとさへ呼びたいのだけれど、もうちょっとサウンドっぽくいえば<ランダムネス>ってことだとおもう。

小杉――その「まったきランダムネス」って魅力ですね。禅とか宗教的な悟りへぼくらの心が開放されるような気がする。結局、ぼくはまったきランダムネスに入りこむ、そのための設定を作品なり演奏を通してやっている。

松岡――老荘的ランダムネスは、静寂していたりするところからは生まれないで精神的にはかなりラディカルにやらないとダメですね。・・・

小杉――ええ、送り手と受けての関係にもそれはいえるんです。ロックの場合だと一方的な命令形で聴いていますが、ケージの作品の場合には、命令形ではなくて、聴く側がエネルギーを出していかなくちゃいけない。こちら側が送り手からくるディスオーダーに参入していってはじめて作品が成立するようになっている。

松岡――生命体は、まったくオーダーでも、ディスオーダーでもない中間にある。いわばオーダーを生成しようとする系でありながら、ついにディスオーダーに帰っていくいくという系です。宇宙のエントロピーは大きなエントロピーにそってエントロピーが増大した熱死状態へいたるアナーキーへ向かっている。けれど生命はそのまったきオーダーに対して抵抗している。その抵抗力はディスオーダーからきている。こういう小杉さんの作品を聴いていると、どこで何の抵抗をおこすかということが確立されたときに、音が成立するようにつくられているようなきがします。・・・・・

松岡――・・・・・日本のばあいは、音がやってくるのは、ウツなるところ、なにもないエンプティーなんです。そこに音を受信する依代がひとつ必要になりますが、はじめはそれは生命体でよかった。その『音連れ』の方向が神の方位になる。ところが、そういう『オトヅレ』を共通体験させる、同時性のコンセプトをもっと拡大するために鈴みたいな代替を置くわけです。それを昔は、サナギといった。イザナミイザナギもそのへんから出ている。まったきエンプティな器をおいて、オトヅレを待つ。音そのものが主人公ではなく、なにかがくるために音がかならずともなう。その設定をうまく選んでやると、魂が鎮魂されたり、振られたり、充填されたりする。

小杉――エンプティネスは、僕のばあいでも心棒になっています。やはり、自分がエンプティに、楽になって空虚にしないと、音も入ってこない。

松岡――そうでしょうね。楽器ということばもいいですね。器は「ウツワ」と読みますが、ウツワというのは、ウツなるもののことなんです。・・・・・

松岡――ケージはアナキストだけれど、食い物にもアナーキーなところがある。(笑)

小杉――老子的なアナーキー、タオですね。ひじょうに受動的だけれど、その受動性を利用し、グンと能動的なものにひっくりかえす。だから、行為といっても、DOとACTがあって、ヨーロッパの演奏はACT型で、ケージのはDO型ですね。

松岡――そのDOとACTというのは、僕流にいいなおすと「なる」と「する」ということになりますね。

小杉――「聴く」ということも、本来、音を聴きながら追っていく「DO」つまり「なる」なんです。だから、ACTがすぎると、DOの自然な美しさが消えてしまう。ケージの作品には、ことばひとつにも、そんななりゆきがあります。

松岡――「聴く」のなかに「なる」があるっていうのはいいですね。なりゆきであり、道行き、やはりタオですね。

小杉――タオですね。いま、ぼくはちょうど老子を読んでいる。


『間と世界劇場』 松岡正剛より