yuki-midorinomoriの日記

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音楽の時間外構造(論理)への脱自、クセナキスとオリヴィエメシアンの高橋悠治弾くピアノ曲

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「EVRYALI・エヴリアリ」(1973)とは<荒れる広い海、空を旅する月、さらにへびの髪をもつ美女メドゥーサ>を意味する。このいっけん音列技法をベースとしたジャズ風の響きを持つ曲を聴いていて、私はセシル・テーラーのパフォーマンスを思い出した。自然に構造を見、論理を抽象するクセナキスの頸き知性は作品に貫徹している。だがやはりこの頃になると構成原理としての方法がもはやクセナキスの感性と化して自在に音響を作り上げているといった印象をもつ。それゆえかメロディアスである。引っかかりや硬さといった次の「ヘルマ」に聴かれるものは、このほぼ10年後に作曲された「エヴリアリ」にはない。ところでさて2曲目の「HERMA・ヘルマ(ピアノのための記号論的音楽)」(1960-61)。この曲は「ピアノの鍵盤全部を含む集合Rと、そこから約30個ずつをえらんでつくられた、三つの部分集合A、B、Cとその組み合わせの集合論的演算による構成」(秋山邦晴)によって「音階の構成原理やその変形方法の探究の最初の実験であった。ヘルマは基礎、つながり、芽生えなどを意味する」と解説されている。作品の背後にそうした形成原理の論理的な基礎付けがなされているというなにやら深遠な託宣を聞かずとも異形のピアノ作品であることにだれしも納得はするだろう。バラバラにさみだれて音が降ってくるランダムネスに身を任せる心地よさとでもいったところだろうか。こうしたクセナキスの抽象論理の方法意識のもとにつくりだされているとはいえ不思議に拘束感のないすがすがしさを覚えるのは私だけではないはず。そのランダムネスが人にもたらす開放感。それは抽象表現主義のジャクソンポロック、サムフランシスたちの絵画を目にしたときの開放感とよく似ていることだろう。≪ハーバートリードによれば、フランシスは、自身の内世界を探訪しているのではない。「かれの意識は自己の世界に向かっているのではない。むしろ外に、光と色の原物質が湧き出ずるその外淵に向かっている。今まさになろうとする艶やかなる現実の無相の相の源に向かっている」自己の内であれ外であれ、フランシスが描く世界は、いまだ明確な存在になりきっていない神秘的な連続体を表している。≫(「現代芸術の過程と光景」C・H・ウォディントン)<内>ではなく<外>である。まさに≪音楽の時間外構造への関心≫であり、≪脱中心化≫≪脱自化≫(近藤譲)ということなのだろう。

≪松岡――フリーとランダムネスって違いますね。今はみんなフリーのうほうに行きすぎていて、「まったきランダムネス」というアナキズムはだんだん忘れつつある。小杉さんとかケージとかが維持していた世界はたんなる<フリー>ではない。ぼくはアナキズムとさへ呼びたいのだけれど、もうちょっとサウンドっぽくいえば<ランダムネス>ってことだとおもう。

小杉――その「まったきランダムネス」って魅力ですね。禅とか宗教的な悟りへぼくらの心が開放されるような気がする。結局、ぼくはまったきランダムネスに入りこむ、そのための設定を作品なり演奏を通してやっている。

松岡――老荘的ランダムネスは、静寂していたりするところからは生まれないで精神的にはかなりラディカルにやらないとダメですね。・・・≫(松岡正剛『間と世界劇場』)

さてB面は≪インドのリズムに影響されて、独特なリズム構成にもとずく旋法的音楽を書きはじめ、カトリック神秘主義の作品をのこす≫(秋山邦晴オリヴィエ・メシアン(1908)。50年代以降のブーレーズシュトックハウゼンらの全音列技法に決定的な影響を与えたとされる「音価と強弱のモード」が入っている4つの曲で構成された『四つのリズムのエチュード』。それらの曲の背後にこれもまた抽象論理による構造化の試みがあるとはいえ、純粋に聴くだけの音楽鑑賞者にとっても音色、リズム等の変化の妙に聴き入り、その提示された世界にはやはりメシアンにしかない独創の煌めく音たちの新しい振る舞いを聴くことだろう。


サムフランシス――http://www.ddart.co.jp/sf-172.html