yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

不分明な差異の戯れの音響世界に奇妙な印象を残すマウリシオ・カーゲルの 『ヘテロフォニー』(1959-61)

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模糊とした音塊の生成消滅が波状起伏をともない延々30数分演奏される。アルゼンチン、ブエノスアイレス出のマウリシオ・カーゲル(1931)。のちセリー真っ只中のヨーロッパ、ドイツに1957年以来居を構え、音楽活動を展開する。それまでの経歴は詳らかなものではなく多くの師に付きはするものの、これといって長続きした師はなく、ほとんど独学に近かったそうである。
クセナキスといい、リゲティといい、またペンデレツキといい、このカーゲルと同様、かれらは音楽の中心から外れた周縁の地出身の作曲家である。かれらは一様に当時の主たる音楽潮流であったセリーに対し、マッスとしての具体的な音響、音色の提示に活路を見出し、それら主潮流とは違ったアプローチをかけていた。
彼らが異議を一様に唱えるその理由として<数理的・抽象的な秩序に立脚するセリエールの書法にある秩序関係は、楽譜の上の記号(音符)間においてのみ保障されるものであり、現実の聴覚でとらえられる音響現象とは無関係なものである>とし、それゆえにまず具体的な音響ありきとして、そこからグリッサンドクラスターなどに顕著な音響創造手法を開発していった。生き生きとした動きを音色の変化のうちに感じ取るダイナミズムを提示したのだ。ある種内閉的心身症とでもいえる、やせ細った抽象的閉塞を突き破るに十分なインパクトを有していたことは確かであった。陸続と彼らの音楽史を飾る名作が60年を境に発表され続けられたことは彼らの革新が時代の真正さを指し示していたということだろう。
中心と周縁のつねなる往還に変革の真正は成され世界は構造化されるということなのだろう。ところでここに聴くカーゲルの音響のたゆとう世界には中心がなく差異の戯れに世界が分節されるなどというと、なにやらドゥルーズらの存在認識に近しいなと変に感心するが、そんな先取りのコンセプトでは無論ないだろう。
しかしこの<1つのメロディ(またはパート)を複数で奏する場合に生じる自然な「ずれ」・・・、 これは「ヘテロフォニー」とよばれる>と定義されるらしいヘテロフォニーがつくりだす模糊とした分明定まらぬ音のずれ、揺らぎ、ゆくすえ不確定なカーゲルのこの『ヘテロフォニー』(1959-61)は、この作品に採られているコラージュ技法に見る、創作者個人の独自性・価値喪失の現代性への問題提起でもあり、またいっこうに盛り上がりのない不分明な差異の音響世界は、中心喪失の模糊としたあいまいな現代性を感じさせるような気になるわだかまりを残して終える。奇妙な印象を残す作品ではある。