yuki-midorinomoriの日記

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プリペアド・ピアノに鐘の余韻聴く黛敏郎の『プリペアド・ピアノと弦楽の為の小品』(1957)

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Mayuzumi: Pieces for Prepared Piano and Strings

           

1957年というと前回ブログで採り上げた傑作「涅槃交響曲」が初演された年であり黛敏郎本人にとっても画期をなす年であっただろう。時代の寵児アヴァンギャルドとしての自らの存在の大きな転回でもあった。マッスとしての響き・音色への本来的な志向性は変わらないとはいえ西洋近代の論理構成的な美的感性世界から、その作品の見事さもあいまって仏教をめぐる日本的自然性への転回傾斜に驚きをもたらすこととなった。仏教が日本的感性そのものであるとは私は必ずしも思わないけれど、むしろ神道的自然信仰・アミニズムとない交ぜになった感性が根っこの部分にあるのではないかと思っている。仏教は明らかに外来宗教であり国家鎮護の宗教であった。我が土俗とはもともとかけ離れた異質のものであっただろう。鎌倉仏教以後地上に降り来たりて普遍の道を歩むにしろ神仏習合本地垂迹に象徴されるごとくわけの分からぬごたまぜの感性世界をもって日本的感性であるといえば言えるだろうけれど。もっともたんに彼は仏教的なものにそれを象徴させただけのことかもしれないとすれば、斟酌して済ませばいいのかもしれない。日本的と云うのも、おおかたが対外的に相対化されざるをえないなかでの近代国家形成に歩を進めた幕末明治以降に作り上げられ、想像上の内側へ反転形成された原日本イメージとして捻じ曲がり肥大したものとして、眉につばして受け取り、洗いなおすほうがいいのではないかとさえ思っている。そんなことはともかくこのアルバムでの「曼荼羅交響曲」(1960)のほうは、スケールといい、ほとばしる情動といい、「カンパノロジー」から来る音作りの斬新衝撃性といい前作「涅槃交響曲」と比べるとやはり整除されたスマートさが印象として強く感ぜられる。もちろん前回にも言ったように、師伊福部昭に聴くような圧倒する情意のエネルギッシュな流動展開には半端ではないスケールのオーケストレーションが鳴らされ、ストラビンスキーばりのヴァイタルな響きをさえ聴かせる。だが、いい意味でだけれど整除されたという印象が強く、それが却ってのちの大作品群の予兆的響きを感じさせる美的<確信>の成立ここに始まるとでも云いたくなる風情である。ところでこのアルバムを手に入れた動機は、はっきりとして記憶にはないものの、たぶんB面に収録されている「プリペアド・ピアノと弦楽の為の小品」(1957)がお目当てであったと思う。若き黛敏郎プリペアド・ピアノ作品がどのようなものかという興味であっただろう。しかしそのときの印象は定かでない。というのも以前、帰宅途上の自動車内のラジオからこの曲が放送されていて、いい曲だなとの印象のうちに聴き終えて、それが黛敏郎の作品と知ったときの彼への評価がぐらついたのを思い出す。それほど新鮮に聴けたのである。この作品が傑作「涅槃交響曲」とほぼ同時期のものであることが興味深い。勿論ここにも鐘の余韻を思わす響きがプリペアド・ピアノの特徴的な連打音でシンプルに奏でられており、またガムラン音楽の響きのようにも聴こえるところもある、それらが切っ先鋭い点描的な作風にもかかわらずきわめて趣のある温かみをさえもった響きをもって余情の世界を結果して素晴らしい。若きアヴァンギャルド黛敏郎はこの時、もうここまできてしまっているのだ。ここには先の交響曲のような壮大な展開意味づけからはなれてのプリペアド・ピアノに徴される斬新な音色の変容に感度鋭く交感し感性開放的に作品化したとの印象を強くもたせるいい作品だ。最後の「エクトプラスム」(1954)は電気楽器と管なしの弦と打楽器、ピアノなどのオーケストラという特異な編成での音響形成の新しい試みといえるだろうか、留学から帰国してのほどない25歳のときの作品で、つくって見せようぞといった風情の音響作品である。電気オルガン・クラヴィオリンの浮遊する風変わりな音響がその感いっそう強くする。特異とはいえ硬直的ではなくダイナミックでふくらみのある音響空間を提示している。≪こうして編成されたオーケストラは、いまのところもっとも私を満足させる音響をつくりだすものであると信じる。この作品はだからまずなによりも音色が重要なモチーフである。メロディー、ハーモニー、リズムなどは音色の対比、融合、ソノリティやダイナミズムによる変化などを強調するための従属的な役割しかあたえられていない。・・・・・こうした私の制作態度の根本には、音楽というものに対する私の観念の飛躍的な変換があり、これからの我々の音楽がどうあらねばならないかという問題に関する私なりの意思表示が潜んでいることを察知されうるとおもう。≫(黛敏郎