yuki-midorinomoriの日記

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竹韻余情を奏でる山本邦山の尺八と自然体の大村とよみの唄の二重奏『日本民謡名歌十三選』(1974)

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小諸馬子唄

               

現代音楽や、フリージャズなどを聴くわりには、手強くさけるに避けられぬ日常生活の<俗>にどっぷり浸かった民謡は殊のほか好きであった。


 ≪山路(やまみち)を登りながら、かう考へた。
  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
   住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越して
も住みにくいと悟つた時、詩が生れて、画が出来る。
  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒
両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みに
くいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。
人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。
  越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人といふ天職が出来て、ここに画家といふ使命が降る。あら
ゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故
に尊(たつ)とい。
住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き抜いて、難有い世界をま
のあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。
こまかに云へば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩
も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘(きうさう)の音(おん)
は胸裏に起る。丹青は画架に向つて塗沫せんでも五彩の絢爛は自(おの
づ)から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカ
メラに澆季(げうき)溷濁(こんだく)の俗界を清くうららかに収め得れば
足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑(せきけ
ん)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点に於て、かく煩悩を解
    脱するの点に於て、かく清浄界(しやうじやうかい)に出入(しゆつにふ)し
得るの点に於て、又この不同不二(ふどうふじ)の乾坤を建立(こんりふ)
し得るの点に於て、我利私欲の羈絆を掃蕩するの点に於て、──千金
の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知つた。二十五年
にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度(きつと)影がさすと
悟つた。三十の今日(こんにち)はかう思ふて居る。──喜びの深きとき
憂(うれひ)愈(いよいよ)深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。之を
切り放さうとすると身が持てぬ。片付けやうとすれば世が立たぬ。金
    は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心配だらう。恋はうれしい、
嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかへつて恋しかろ。閣僚の肩は数
百万人の足を支へて居る。脊中には重い天下がおぶさつて居る。うま
    い物も食はねば惜しい。少し食へば飽き足らぬ。存分食へばあとが不
愉快だ。……≫『草枕』(冒頭)夏 目 漱 石


上記引用は下記ホームページより利用させていただきました
こぶしの利いた演歌をよくド演歌というけれど、こぶしの利いた節回しで民謡をうなられると、もう胸がざわざわとし、破顔呵々と笑いもし又ときに悲別に哀哭涙し、這いずりまわって生きかつ逝ていったであろうヒト百人百様のさまざまな人生の歩み行きがそこはかと思われ、哀切しみじみとセンチメントになる自分がいささか恥ずかしくもあるけれど。今回とりあげるアルバムは名手山本邦山の尺八一管と歌というごくシンプルなデュエットでの『日本民謡名歌十三選』(1974)である。道中馬子唄、十三の砂山、最上川舟唄、南部木挽唄、南部牛追唄、長持唄、小諸馬子唄、夏の山唄、秋の山唄、相馬流れ山、鈴鹿馬子唄、こきりこ、刈干切唄、いずれも何らかの機会に一度は耳にされているだろう名曲ばかりである。胸ざわつかせる民謡のこぶしと、陰として竹韻余情を奏でる尺八の世界にいわくいいがたい感情の揺らぎの生起にしみじみと聞き入ること請け合いである。民俗学者柳田國男の下で研鑽したともいう、民謡発掘保存に多大の業績あった町田佳声は≪元来「民謡」の唄と尺八との関係は、尺八は助奏という形で歌のメロディーに従い、それに追従してゆくというだけであるが、この邦山師のこの演奏のばあいは、尺八のほうに自主性があって、唄のメロディーはそれに絡んでゆくように編曲されているので、ある意味においては竹韻と人声とのデュエットという面白い効果を生み出している≫との評言をあたえている。山本邦山の尺八もよくうたい、大村とよみの歌もけれんみなく自然体でいい感じである。

≪馬子唄(まごうた)とは、馬追いが馬をひきながら唄う歌のことである。馬追い歌、馬喰節(ばくろうぶし)などとも言われる。民謡の一。馬ではなく牛を追う場合は「牛追い唄(岩手県の『南部牛追い唄』などが有名)」などと言われる。有名な馬子唄としては、箱根馬子唄(神奈川県)、小諸馬子唄(長野県)、鈴鹿馬子唄(三重県)などがある。≫(WIKIPEDIA


≪日本の民謡には、「○○追分」(○○は地名)という曲が各地にあり、その多くは朗々と声を響かせてうたう歌である。著名なものに「江差追分」などがある。もともとは信濃追分(現在の長野県軽井沢町)付近で歌われていた馬子唄が、関東以北の各地を中心に広がったとされている。追分の音楽的特徴として、
· はっきりした・明確な拍節を持っていない(調子よくパンパンと手拍子を打てない)
· 音域が広い(高い声から低い声まで出さなければいけない歌が多い)
· 母音を伸ばす(歌詞等の一文字を長く伸ばす場合が多い。西洋音楽のメリスマ参照)
などが挙げられる。≫(WIKIPEDIA