yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

武満徹のバーチカルでダイナミックに拍動する室内楽の響き『スタンザ第一番』(1969)ほか

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環(RING)の " I "

            

武満徹は小編成の室内楽が自分にとってもっともふさわしい形式であるといっていたそうである。
それは大オーケストラなどの演奏機会を得ることの現実的な難易を意味していることもあるだろうけれど、彼の響き、音色への志向性にとってはよりふさわしい形式ということなのだろう。
たしかに、このアルバムの4作品『スタンザ第一番』(1969)『サクリファイス』(1962)『リング』(1961)『ヴァレリア』(1965)はそうしたことの端的な証示といえよう。
ピエール・ブレーズは「音楽は音の芸術ではない、音と沈黙の対位法である。」といったそうである。
まさにかれの傑作「ル・マルトー・サン・メートル」「プリ・スロン・プリ」を聴けば肯けも出来よう。そしてこの武満の室内楽作品こそはまたそうである。
ところで≪・・・それから、僕は「音は黒板のように詰まっている」という気がするんだけれど、これも、なぜ「黒板のように」なのかわからない。とにかく黒板のようにみっしり、上に続いているように思えるわけです。ヨーロッパでは白色雑音という言い方をするけれど、僕には黒いものに映じている。有機的に、生きていて、そして黒く塗りつぶしたように詰まっているんですね。≫(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より)音は黒く上に起っている。そうした音の原イメージを持っていると武満徹は言っている。
私には、ここに彼の音響構造の淵源がありそうに思える。武満が自身の音楽に対して説く時よく用いる「(旋律的な)Harmonic Pitch」なる用語の意味は、
≪一つの<音響複合体>としての響きの構造なのであり、これは従来の音楽における、水平関係が支配する<旋律>に代わるものなのである。
<Harmonic Pitch>においては、音の垂直関係がきわめて重要なパラメーターとなる。≫(武田明倫)
ここにバーチカルな音の存在イメージの、音色響きへの具体化を了解出来はしないだろうか。
そしてまたもうひとつのキーワードである「Pulsation」。それは、自分の音楽には何分の何拍子といった伝統的リズムとはまったく無縁な、音それ自身が生きて呼吸するがごとくに脈動を与えるものとして<Pulsation>があり、それは動きをもたらすものであるとしている。
緊密な空間にバーチカルでダイナミックな響きが多彩なロマン主義的彩りをもった<音の河>となって流動する武満徹の響きの世界は、こうした独創の構造のもとに人の聴覚へと押し寄せてきているのだろう。
≪武満の敵はロマン主義ではなく、ロマン的な音の河の流れをせきとめ枯渇させる作曲技法であった。
それは、たとえば図式的なソナタ形式であり、規制的な四分運動ともいえる拍節構造であり、ある時は、機能的な調性構造であったろう。≫(船山隆)
そしてまた「弦楽の為のレクイエム」にたいして彼は<はじまりも終りも定かでない。人間とこの世界をつらぬいている河の流れのある部分を、偶然に取り出したものだといったら、この作品の性格を端的にあかしたことになります。>と述べているように、聞こえぬ犇めく音にみちた沈黙の無の流れに<音の河>を聴く。
<音楽に関して最も重要な作業というのは新しい耳で聞くことであり、自分の音の聴覚をなおすことです。その音とは、耳に聞こえる音と聞こえない音の両方です>(武満徹武満徹の音楽は、また聴く行動としての音楽の自覚化を促しているのだろう。



武満徹―――

<私が表したかったのは静けさと深い沈黙である。>

<私は自分の作品が作者不明のものになってくれれば良いと思います。人々は私の音楽に対して自分の好きなように反応する自由をもっているべきです。>

<私の立場はデカルトのそれとはまったく相反するもので、自分のエゴを主張することに反対です。私にとって最も重要で神秘的なものは人間の存在という事実>です。



Tōru Takemitsu ~ The Dorian Horizon ~ 1/2