yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ポール・ズーコフスキーによる日本の現代作曲家のヴァイオリン作品演奏『ポール・ズーコフスキーの芸術』(1979)

イメージ 1

石井真木(1936-2003)。伊福部昭を師とし、彼もまた同様感性的に東洋・アジア的な民俗への関心を少なからず有していた作曲家といえよう。伝統邦楽器を使ったアマルガムな作品に力作も多い。しかしけっしてそれらを添え物として扱うような粗末な印象も、またもろに伝統的音階のノスタルジーに寄りかかる折衷的安易さも決してとることなく、繊細な響きとエネルギッシュな音の躍動、緊張をその骨格太くつらぬいて確かさを感じさせるいい作品をものしている。おいおい彼の作品紹介の機会がこのブログでもあることだろう。
風貌にふさわしいスケールの大きなダイナミックな作風の諸作品紹介は其のときまで待つとして、今回はとりわけ現代音楽に、そのヴィルトージティをもって演奏、貢献大きいアメリカのヴァイオリニスト、ポール・ズーコフスキーPaul Zukofsky(1943)による日本の五人の現代作曲家の作品を取りあげたアルバム『ポール・ズーコフスキーの芸術』(1979)である。
1957年13歳のときにカーネギーホールでデビューし、20歳でジュリアード音楽院終了、パガニーニ、ティボー他のコンクールでも受賞という華々しさである。又「ハイフェッツ以来のヴァイオリニスト」と称され評価を受けもしていたが、クラシック曲演奏のみには飽き足らないのか、果敢に現代音楽演奏へとヴァイオリンの領域拡張に挑んで、ヴィルトージティ併せ持つ稀なる演奏家といえようか。
さてはじめに、一番手堅くまとまり、良い現代の古典的作品のごとく仕上げられているのが一柳慧(1933)のピアノとヴァイオリンによる『シーンズⅠ』(1978)である。ケージと行動を共にし、その音楽コンセプト<偶然性>などを日本にもたらし衝撃を与えたアヴァンギャルドのイメージからは程遠い、品よくうたう洗練がみごとな素晴らしいバイオリンソロ作品となっている。若き日にアメリカへ旅立つ前の、才人の誉れを追認するような思いがすることだろう。
時空の伸び縮みに定位される、艶やかに引き締まったヴァイオリンの音色揺動が醸す、精神の高踏と荘重が印象見事な湯浅譲二(1929)の『マイ・ブルー・スカイ』(1977)。
まるでバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータを、なにものも意味指示せぬ、方位360度の透明空間にときはなち漂うごとく、不思議な厳かさをも響き感じさせて新鮮な、、独擅場とも言える作風の近藤譲(1947)の『リタード』。
さてところで順序が逆になってしまったが最後に当の、このアルバムでもっとも印象の残った作曲家石井真木の作品『失われた響Ⅰ・ヴァージョンB』である。
ヴァイオリンの印象的な糸引く緊張漂わせた線的フレーズ・旋律の無限進行、無穹のうごきと、彩り鮮やかにつぶ立ち、緊密な空間を生起させるさまの律動的なピアノ他マリンバヴィブラフォンなどの繊細さをも併せ持たせた煌く音の舞は、秘めた生命の静やかな対位法のごとき響きと音色の世界で印象深く見事であり、ここでピエール・ブーレーズの<沈黙と音の対位法>なる玄妙な言葉が思い出される。
こうしたナイーブさも併せ持っていたのかという多少の驚きもあった。再度、石井真木をさかのぼって真剣に聴き直さなくてはと思ったことでもあった。