yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

篠崎史子の『ハープの個展』(1974)に聴く、武満徹の『STANZA Ⅱ』(1971)と小杉武久『ヘテロダイン・1973』

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現代音楽 篠崎史子 「ハープの個展」/武満徹/坪能克裕/小杉武久

             

≪ある真昼の情景であり、石は沈黙を破って言葉を交わし、鳥は影を落とすこともなく中空をよぎる。音楽は舗道のたたずまいに等しく過ぎ去るものであり、沈黙をふちどる。≫見事な、イメージ喚起する文章であり、同時に作品解説でもあり、音楽感の吐露でもある。
まことに、これほどことばのシンボリックなイメージと作品形成が結びついて見事な作曲家も珍しいのではないだろうか。作品タイトルの詩的イメージ喚起力には誰しもそうした印象をもっていることだろう。また、書き綴られた文章の卓抜さも抜きん出ている。
上記の引用文は今回取りあげるアルバム、篠崎史子の『ハープの個展』(1974)に寄せられた武満徹の自作品『STANZA Ⅱ』(1971)への解説メモ中に記せられた字句である。この作品は、テープ音をともなって演奏される6分ほどの小品であるが、テープ処理された響きとアコースティックなハープの響きが作り出す音界にはたえざる始原性への回帰を思わす魅力に満ちて素晴らしい音響空間を提示している。それはジャチント・セルシの倍音を使った古代始原の息づかいを感じさせるような風情を感じさせもする。
ここでもいえることは、武満の、響きが作り出す濃密な空間形成力ゆえにこそ同時に沈黙がくまどられ、それゆえ、よりいっそうその響きに奥行きと輪郭をあたえている。ピエール・ブレーズは「音楽は音の芸術ではない、音と沈黙の対位法である。」といったそうである。蓋し、至言といえよう。武満徹も自著のタイトルにもしている「音、沈黙と測りあえるほどに」が意味していることは、作曲技法など違っていても、ほぼ指し示している実質はなんら変わらないといえるだろう。
さてこのアルバムのもう一つの聴きものは小杉武久の約25分に亘る篠崎史子との電子パフォーマンス『ヘテロダイン・1973』である。例によってのキャッチウエーブ、日本的余情を感じさせるハープソロと東洋的瞑想さそう小杉武久独創の悠久の音の波乗りである。この作品への作曲者のメモを以下引用する。そのことばの指し示すところからもおおよそイメージ膨らむことだろう。
ヘテロダインあるいは波乗り――ヘテロダインとはたとえば、可聴波ではないふたつ以上の高周波(ラジオ・ウェーブ)が電子回路の中で相互の周波数が近似の時に干渉を起こし、可聴帯の波としてのビート(唸り)信号を生じるという事柄であり、この第三の波が増幅されればスピーカーを鳴らし、音として響くことになる。今この作品ではこの一般的なヘテロダインとは異なった波を使用し、異なった企てをもつが、・・・超低周波が使用されていて、その電子波(三角波あるいは正弦波)は海のうねりのようなゆっくりとしたサイクルで動き、これが音色変化に関する電子回路をコントロールしている。
したがってこの音色回路(フィルター)を通過する楽器などの演奏者は超低周波のうねりにつれて、その音色が連続的に変容を受け、演奏者はそのうねりに乗って自由で即興的な≪波乗り≫を楽しもうということである。≫
まさにこのとおりであり、素晴らしく心地よい異時空間へのウエーブ音をともなった瞑想的トリップを体験することだろう。電子回路が偶然として作り出す音の位相変化が微妙な揺れをもたらし、揺らぎのアルファーウェーブとなって心身の瞑想脱落必定である。素晴らしい心の清冽、伸びやかに開け放たれる精神の飛翔、悠久の音の波乗りに、心身軽やかに透き通り存在の空無へと解消することだろう。



ジャチント・セルシ――関連マイブログ
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