yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

武満徹の山下ツトムの独奏打楽器との『カシオペア』(1971)と石井真木の雅楽とオーケストラのための『遭遇Ⅱ・<1971>』

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さすがに毎日ブログろうとすると疲れる。文筆を生業とするプロのようにネタがコンコンと湧いてくる才と蓄積でもあればいいが、そうでないシロウト身にはキツイ難行苦行でもある。とまあ、泣き言めいたつぶやき、ぼやきが出もするが、歳の所為もあり、一種、備忘録のつもりもあってブログって書き溜めている次第です。いまさら<業>ふかく荷を背負うこともあるまい、徐々に忘れ去り身軽にするのが人生だと言い募る向きもあるのは承知だけれど、書き連ねているうちに又、自身にとってのテーマも見つかり、命ある間の暇つぶしになるだろうとの算段もある。金も名誉も要らぬと啖呵切ってみたいものだが、格好よすぎるので、僅かな金と、暇つぶし・テーマが欲しいというところが正直なところだ。爾来、別にプロになるつもりも才もないのをわきまえはしていたものの、自分なりの、ささやかながらでもノートをしたためておくべきだったと今になって思う。読みっ放しの、聴きっ放し、引き出しがない、の咎がブログる今になってボディブローのように効いてきているようだ。ボキャ貧、ネタ貧、広がり深みがないと見事にお返しが来ている。ま、ぼやくばかりでも仕方がないので本題といこう。今回取りあげるアルバムは、廉価盤ではあるが小沢征爾指揮による武満徹の独奏打楽器とオーケストラのための『カシオペア』(1971)と石井真木の雅楽とオーケストラのための『遭遇Ⅱ・<1971>』の二曲が入ったもの。一曲めの『カシオペア』は一人の異能の傑出した打楽器奏者・山下ツトムの演奏を構想の当初から念頭に作曲されたそうである。その種々の打楽器が山下ツトムによって放たれることによる響きの持つ始原性のイメージは、武満徹の音のイキサツ、音の生成の初原へのこだわり、音楽観を見事に掬い上げている。そのパフォーマンスには確かに山下ツトムという打楽器奏者を自らのコンセプトのリアリゼーションに欠かせぬ存在と見ていることがよくわかる結構となっている。ソロの凄まじいまでの過去現在と通時的な時空手繰り寄せる呪術力で喚起する初原の響きのパフォーマンスは、やはり異能の人面目躍如といったところである。武満のサウンドも歴史の時空を手繰り寄せ秘中厳かに響き渡り、音のゆくすえ鋭く耳そばだて沈黙に対峙する精神の勁さ、余人を持っては代えがたき唯一無二のものと感嘆する。ここにはのちNHKテレビ放映の『未来への遺産』で聴くことになる響きの構造が微かではあるが随所で顔を覗かせていて興味深い。さて次の、本来外来音楽でありつつも日本の音として練成されてきた雅楽と西洋近代音楽との出遭いに想を得た石井真木の『遭遇Ⅱ・<1971>』である。この作品は、≪雅楽のための音楽≫と≪オーケストラのための雙≫という二つの異なる音楽の同時演奏といった趣を持つ作品ということだそうである。そういうこともあり、当然ではあるけれど、武満の雅楽とも、黛のそれとも違った雅楽の取り込みとなっている。形式に則る雅楽の扱いとかは背後に退き、オーケストラの、テーマを持たない凄まじいまでのトーンクラスターの音のマッスの移り行きに厳かに割り込んで浮かび上がってくる笙、竜笛、鞨鼓などの雅楽は、これはこれで見事に主張明らかなさまである。この雅楽の響きにもクラスター処理が為されており、また雅楽の存在の根幹、無拍節のそれはエキゾチズムといったような次元ではとうてい説明しきれない程の強い独自存在の主張をみせる。繊細といったようなありきたりのスタンスではない。双方の絶対性の強烈なまでの響き、音色の主張展開といえるだろうか。それゆえかオーケストラのトーンクラスターのありように、音楽構造と響きのまったく違う雅楽がおおきく変化をもたらせる結果となり、双方出遭うことによる音響構造構築へのエネルギッシュな果敢な挑戦として、石井真木の雅楽たりえているといえるのだろう。