yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ミシェル・ベロフによるオリヴィエ・メシアンの『幼子イエズスにそそぐ20のまなざし』(1944)

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Olivier Messiaen - Vingt Regards sur l'Enfant Jésus XIII-XIV

             

ミシェル・ベロフによるオリヴィエ・メシアンの大作『幼子イエズスにそそぐ20のまなざし』(1944)を聴く。2枚組み全曲演奏である。これが宗教的趣向、主張を持った作品と俄かには聴けないだろう。まったくセリーでの現代音楽そのもののようにはじまる。しかし徐々に徐々に聞き入り時至るとともに、愛と敬虔、祈りの鐘の音の反復に荘厳を聴くことになり、圧倒されることとなる。≪彼(オリヴィエ・メシアン)の音楽の「例外的な強靱さはリズム、つまり時間概念にあった」。こんにちの音楽における「リズム概念の革新の重要さを私たちに理解させたのがメシアンであり、その根源に《春の祭典》があった」とブーレーズが言う。・・・・・「彼は鳥の鳴き声、岩山、風景、色彩、山々といった自然からインスピレーションを受けたのではない」とブーレーズは続ける、「そうではなく、彼はそれらが語るものをそのまま音楽に移し換えたのだった(…)メシアンにとって音楽とは、そうした宇宙的な現象の一環であり(…)、作曲とは、そもそも<コンポジット>(組み合わせ)という言葉を内包する作業だった。メシアンは自身の複雑な音楽思想の彼方に子供のような新鮮さとあらゆることに感動できる感性を持ち続けることに成功した。」≫(「音楽の友」1992)これらのことばは、オリヴィエ・メシアンにたいする、優れた思想的批評家でもあるブーレーズの見方である。このことばを目にし、ふとジョン・ケージの≪子供の時に子供でいるより、大人になって子供になるほうがいい。≫ということばを思い出した。そこでこそ露わになり、より見えてくるものがあるということだ。世界の民俗のリズムの探求といい、とりわけ鳥の鳴き声の採譜といいそれらが音楽形成に大きな位置を占めることはつねに言われてきていることだ。一見児戯に見えないこともない。


松岡正剛――カオスを単なる混沌というふうに見るのは間違いですね。力学系としてのカオスはボルツマンのエルゴード仮定として初めに科学史に登場して、これをポアンカレが突きとめるんだけれど、なかなかおもしろい問題でね。最近ではプリゴジン散逸構造として広い意味でも理解されはじめているらしいし、それにコンピュータ数学が発達してカオスから情報が生成するらしいことも注目されています。要するに数学のことばでいえば「非線形振動系」というのがおもしろい。はやりの生物物理学的にいうと「非線形非平衡開放系」ですね。そこにはカオスからコスモスに至る自己編集化の相が見えてくる。これを別の言葉でいえば、いわばリズムの本質とは何かということですよ。

中沢新一――エピクロスも、ズレながらカオスを突っ切る時のことを音楽だといっている。

松岡正剛――音楽というか、リズムでね。生命系にとってのリズムというものはリミット・サイクルなんです。リミット・サイクルというのは平衡からうんと離れた開放系でおこる。<内秩序形成過程>といったもので、いわばこの世の時間を生んでいるプロセスに当たっている。世の中には空間的な内秩序の形成と時間的な内秩序の形成があって、空間的な内秩序は僕の好きな鉱物の結晶なんかでもおこっているけれど、時間のオーダーの生成は非平衡系のなかでしかおこらない。そういったことは二十世紀後半の科学がやっとつきとめつつあることなんだけれど、歴史をよく振り返ってみたら古代の自然哲学者も似たようなことを考えていたわけだよね。

中沢新一――それがマテリアリズムの最初だったというのが大きいと思うのね。古代の唯物論というのは、結局、自然を覆っている神様のベールを引き裂くことですよね。その神様のベールというのは物体のあり方を見えなくさせているのと同時に、意識そのものをものすごく制限した状態にさせている。まあ言ってみれば頭を悪くさせるために、神様はいるわけですよね(笑)。それに対して神様のベールを引き裂いて人間の大脳を覆いつくしているものを破壊してゆくことがマテリアリズムだった。現代はそれが逆転しちゃっているでしょう。たとえば、精神世界を主張する連中はマテリアリズムを批判するけれど、これはまったく逆倒だと思うんですね。神秘主義でも何でも最初はマテリアリズムだった。

松岡正剛――マテリアリズムというか、マテリアそのものから万物は流転しているわけで、その物質の経験の流れから精神の経験の流れも出てきているわけですね。・・・・

                    (松岡正剛『間と世界劇場』より)


鳥の声に隠れてある<それ>を視、そして聴いたのだろうか。<移ろい行き、溶けて幻に似た無に近づく物質の将来>に思いを馳せ、<それ>に祈り荘厳の神秘の音を紡いだのだろうか。<それ>を万物の創造主といい神というか。賜物としてのすべての存在が紡ぐ音楽。





Katsaris-Messiaeno. messiaen: Regard de L'Eglise d'Amour luxembourg, 1976









以下松岡正剛千夜千冊での「非線形非平衡開放系」世界への招待
彼の書評をかねた思想の開陳はひじょうな魅力で勉強になること請け合い。別に私はそれらを読んでるわけではありません。松岡の思想のエッセンスを読んでいるだけともいえますが、それでいいのです。それで十分です。