yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

シンプルさに、もの悲しい憂愁を漂わす高橋悠治演奏の『エリックサティ・ピアノ作品集』

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             Gymnopedia No 1
             


以前あるラジオ放送番組でエリック・サティを聴くにふさわしいのは目覚めの朝か、夜の更けた就寝前の深夜かといったことをやり取りしていたのを車中で聞いたのを覚えている。
確かにそのような問いかけをするにふさわしい曲調のシンプルさが特徴の耳に障りのないピアノ曲である。明るさの中にも悲しみをさえ漂わせる『ジュ・トゥ・ヴゥ』。装飾のないフレーズで穏やかに流れ行く、もの悲しい憂愁のその作品はテレビコマーシャルにもよく使われもする。嫌なことばだけれど癒しの音楽だそうである。癒しということばが私には馴染まないだけで、音楽はまさに心を慰撫、安穏平静を誘うものであることには変わりはない。1866年フランスに生を享けたエリック・サティ。1872年6歳の時に母と死別。1878年12歳の時に預けられ育てられていた祖母(たぶん若い祖母であったろう)が、自身の生地の浜辺にて溺死体で発見される。何らかの精神的影響があっても不思議はなかろう。評伝家にとっては格好の素材であるだろう。奇妙極まりないタイトル、演奏指示の類いのことばは夙に知られたことであり、サティといえば先ずこのことがあげられる。この今回採り上げる高橋悠治演奏の『エリックサティ・ピアノ作品集』にも収められている代表的な作品『ジムノペディ(Gymnopédies)』(1888)三曲。その副題には 第1番「ゆっくりと悩める如く」。第2番「ゆっくりと悲しげに」。第3番「ゆっくりと厳かに」といった具合である。≪東洋的な雰囲気は1889年のパリ万国博覧会で民族舞踊合唱団を通じて知ったルーマニア音楽の影響とされている。≫(WIKIPEDIA)その『グノシエンヌ(Gnossiennes)』(1889年~1891年)。≪最高完全の知識。神智≫(大辞泉)を意味するグノーシスからのサティの造語ということだそうである。小節線のないこの曲にも演奏者への助言として付された「思考の端末で」「うぬぼれずに」「頭を開いて」等の変わったことばが記るされているそうである。ねじれた性向からして、こうした慰安のこころ静やかな曲が生み出されるのが不思議というより、そこに隠された純なるものが胸を打つ。この二作品は何かに追われ神経病み疲れた現代の人間の心に沁み込むことだろう。エリック・サティの生きた時代はまさに近代産業の爛熟期、世界交通怒涛のグローバリゼーション幕開けの時代であった。≪パリ万国博覧会(第5回)は、1855年以来、5回目にパリで開催された国際博覧会で、パリオリンピックと合わせて開催された。開催日は1900年4月15日-11月5日で、過去最大のおよそ4700万人が入場した。第4回に引続き、くじ付き前売入場券を販売し、開催予算1億フランの6割をまかなった(4割はフランス政府とパリ市が折半)。ロシア皇帝の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。また、動く歩道等が話題になった。≫(WIKIPEDIA)。まさに都市化過剰の始まりであった。都市消費文化、デパートの登場、電気・通信・映像・光による情報の拡大加速、量化と都市集中。夜の大衆文化の登場。うごめく欲望とたぎる芸術。神は死んだと叫んだニーチェの時代でもあった。都市の爛熟、退廃、価値喪失の世でもあった。都市の倦怠、退屈を詩ったボードレールはサティと入れ替わりである。希望と美を毒づいたアルチュール・ランボー(1854~1891)。そうした同時代のエリック・サティーである。都市化の商品、情報の集中汚濁と過剰。酒と女と紫煙に退廃する虚飾と過剰に流される都市消費文化に、何ほどでもなくそこにあるだけをよしとする最小限の美「家具の音楽」を提唱したエリック・サティ。≪フランスのオンフールに生まれたサティーは、10才からピアノを学び始め1879年にパリ音楽院に入学するが、音楽院の保守的な空気が合わず86年には軍隊に入隊して音楽院を抜け出す。ほどなく軍隊も除隊し88年からキャバレー「黒猫」でピアノ奏者などをして生計を立てていた。90年代前半には、神秘主義的秘密結社「バラ十字会」の思想に共鳴し、その専属作曲家となる。 91年には「黒猫」を飛び出し、92年には「バラ十字会」からも脱会する。 翌年、同じアパートに住んでいたユトリロの母親である女流画家シュザンヌ・ヴァラダンと恋愛関係になるが半年ほどで破局を迎える。 その直後に、サティーはみずから「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を創設し、司祭兼聖歌隊長を名乗り教会機関紙まで発行したが、実際には他に信者はおらず、自室の押入れの中でひとりっきりでの宗教活動だった。(機関紙も自分あてに送っていたといわれている)  フランス学士院会員に3回にわたって立候補するが、無名であったために成功しなかった。 この頃、ドビュッシーと知り合いその後永い交友を結ぶことになる。 98年にアルクーユに居を移してからは終生独身のまま、その土地にとどまり最晩年には病気のため思うように活動ができず聖ジョゼフ病院で亡くなった。≫(ネット記事より)。何かもの悲しさが漂ってくる人生行路ではある。最後の作品は≪振り付けも台本もダンサーの即興で行い、・・・・ 劇の幕間には映画が上映された。その映画ではらくだが引いた霊柩車からジャン・ボルランが飛び出したり、テラスでマン・レイデュシャンがチェスをしたり、空からエリック・サティとピカビアが降りてきてパリめがけて大砲をうつなどといった、全くストーリー性のない作品≫でそのタイトルは『本日休演』だったそうである。

    「ねえレジェー、皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」
                                  (エリック・サティ