yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

プリペアド・ピアノの民俗の響きに心優しく安らぎを聴かすフランソワ・テュスクのピアノソロ『DAZIBAO NO2』(1971)。

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1938年生まれでフランスフリージャズ界の先導者ということである。レジスタンス運動に深く関与していた父親の機密保持のため、本人も表立った行動をとることかなわず、音楽家の母親を持ちながらピアノは耳学問、独学であったそうである。そういえば山下洋輔もピアノ教師をしていた母親が自宅で教えているピアノを、戸を隔てて聴いていたのを譜面も見ずにこっそり弾いていたそうである。ほとんどスコアーなしで、聴くだけで弾けたそうである。それを聴いた母親がそれの教習本を見せ、このように弾きなさいと与えられたとたんに弾く気が失せたといったようなことが日本経済新聞夕刊の記事にかかれてあったのを思い出した。先日鬼籍に入った指揮者、岩城宏之もラジオから流れている音楽を聴き、病気がちの身でうつ伏せで木琴を弾いていたのがそもそもの音楽への始まりであったそうである。尋常でないところから独創や才能が生み出されて来るというのも面白いことである。サルでも、冒険するのは子ザルで、突拍子のない何事かをもたらすのもそのせいで子ザルであるそうだ。新しい端緒をきるのは常識が身に備わらずその外にいる子ザル、子供、異端、楽して何とかしようとする天邪鬼、へそ曲がりということなのだろう。さてこのフランスフリージャズ界の先導者フランソワ・テュスクのこのピアノソロパフォーマンスのアルバム『DAZIBAO NO2』(1971)。DAZIBAOが何を意味するのか皆目分からないのはともかく、デザインを見ても分かるように未だ社会変革への精神的、イデオロギー的支えでもあった、またあり得ていた毛沢東(1893-1976)、レーニン(1870-1924)、マルクス(1818-83)のイラストが見える。ある世代以上にとっては、これだけでもいまや時代へのノスタルジアである。1989年を境としてということであるが。たぶん後年大きなターニングポイントとして幾度となく省みられる1989年だろう。もの心ついていて、目の当たりにした世代とそれらが単なる歴史の事実記号でしかない世代とでは根底からして違いを今後見せ始めることだろう。あれよあれよと総括する間もなく、今日この政治経済状況を迎えてしまっているのが正直なところだろう。若い世代に政治は存在するのだろうか。何か一抹の不安がないでもないが。ところでこのアルバムのパフォーマンス。アルバムデザイン、また曲のタイトルおよびメッセージが政治的なだけに内容はと気になって針を降ろしたが、えらくナイーブで美しいのには感じ入った。よくある(中国に経験上よく聴く)戦意高揚、人民意気鼓舞するといった分かりやすく煽り立てるといったよくある曲調のものでなく、プリペアド・ピアノの奏法を取り入れ、まるでジョン・ケージのピアノ作品の響きのごとく、ガムランの響き、東アジア、中国、アフリカ、中南米民族音楽のリズム、音階旋律、響きを聴かせており、それら民俗の風情がまたなんとも心優しく安らぎを感じさせるのである。テュスク一人の演奏のはずなのにリズムセクションに別人がいるかのように複層的でハーモニックなパフォーマンスが試みとして新鮮で見事である。意外にその政治的主張とは関係のない音楽的に自立したおもしろいピアノパフォーマンスとなっている。ジョン・ケージプリペアド・ピアノ作品のジャズ版といった趣である。聴いて得した感じである。