yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

歴史に息づく三絃(三味線)の余情の響き『西潟昭子・三絃』(1980年)

イメージ 1

三味線といえば、たぶんおおかたが、津軽太棹三味線であり、文楽義太夫太棹三味線であり、歌舞伎の長唄細棹三味線であることだろう。常磐津、清元、地歌、新内などの中棹というのもある。とはいえ実際耳にする機会は随分と少ないはずである。民謡で聴く三味線程度のことだろうか。殆んどの伝統芸能が日常目にし、耳にする機会が少なければ当然のことではある。羽織、袴、チョンマゲの生活でない以上これまた当然であろう。ヨーロッパ近代が大航海時代以降、経済産業の膨張グローバル化で世界に席巻し、それぞれの界域で宗教を筆頭に、さまざまな土俗民俗との軋轢をもたらした。極端としてはインカ帝国などに見られる亡国に至る蛮行蹂躙すら記録されている。当然日本も例外ではなく幕末明治維新以降の凄まじいまでの近代化による民俗伝統、精神の軋轢崩壊である。産業の近代化隆盛は伝統文化の背駆後退と裏腹であった。わが国ではじめて農民も参画許された民兵組織、奇兵隊を率い歴史を疾駆した高杉晋作(1839-1867)。その奇兵隊のいでたちに日本近代をみてもあながち的外れでもないだろう。その高杉晋作はつねに三味線を携えていたそうである。何をくよくよ川端柳・・・・とは彼の唄と聞いたけれど。それはともかく高杉晋作の≪辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」であり、下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。 また都々逸(どどいつ)の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている。(木戸孝允作の説も有り)≫(WIKIPEDIA)というように彼はピストル・火器と三味線抱え幕末動乱を駆け抜けた。西洋音階、楽器が怒涛の伝統破壊、駆逐をみせるのは、もうすぐそこであった。サムライ、チョンマゲは共にはや歴史のかなたである。私たちになじみのある滝廉太郎(1879-1903)山田耕筰(1886-1965)信時潔(1887-1965)に始まる近代音楽の歴史を紐解き、それ以前の古色蒼然たる伝統邦楽家の名前の連綿に改めて近代の破壊力を見ることだろう。ところで今回ここに採り上げる西潟昭子が手にする三味線(三絃)なる楽器は≪成立は15〜16世紀とされ、和楽器の中では、比較的歴史の浅いほうである。≫(WIKIPEDIA)そうだ。その三味線(三絃)を使って現代音楽に果敢に挑んで今日でもその活動目覚しいときく西潟昭子は≪1945年東京生まれ。幼少より山田流筝曲を学ぶ。東京芸術大学邦楽科卒。杵屋正邦門下となり現代邦楽の三絃を師事。≫このアルバム『西潟昭子・三絃』は1980年に出されたもの。A面、坪能克裕『庵の閑話』、池辺晋一郎『はじめのうた』、三枝成章『LA・LA・LA・LA・LA』。B面、三枝成章『FLASHI-Ⅱ』、佐藤聡明『沈黙』という内容である。全曲が現代音楽作曲家の手に成る個人委嘱作品でもある。坪能克裕『庵の閑話』は表題どおり普段のなんでもないとりとめのない内容の対話のやり取り、言葉のイントネーションを擬く三絃がなんともユーモラスでありながら、そうしたことから、その三絃の背後にある民俗の歴史を感じさせもし面白いものである。なんでもない日常の言葉が持つ民俗の歴史とそれを掬い上げてきた三絃の音色。かつて義太夫調子でお国なまり取り除き、遠方の知らぬもの同士が対話したと聞いたことを思い出した。池辺晋一郎『はじめのうた』は三絃の音の初源にせまる試みとしてシンプルながら響きに余韻もち品ありていい作品だ。撥弦楽器である所為なのか撥たれ放たれる音のなんと引き締まって素晴らしく、秘めた空間喚起力が鋭いのだろう。三枝成章『LA・LA・LA・LA・LA』軽快なポップス感覚も見せる一種ミニマルミュージックのような曲であり、元来邦楽器がもつ和音程と西洋音階のなにか隔靴掻痒とでもいった尻こそばゆい違和感など感じさせないパフォーマンスで、こうした三味線を聴けば津軽三味線のように一般性も得られるのではと思わせるいい曲である。B面一曲目、三枝成章『FLASHI-Ⅱ』これはまた奇妙大胆な音楽である。シンセサイザーと打楽器合奏と三絃ソロという試み。邦楽にはありえない信じられないくらいの、それも小気味よくスピード感あふれるリズミックでエネルギッシュな、西洋が徹底的に邦楽器三絃を包囲追い詰め悪く言えば、いたぶるような試み。孤立無援の西潟昭子の三絃頑張るといった風情。なんともこの対比が面白い。汗だくの頑張る西潟昭子、三絃、日本といったところ。このようなパフォーマンスを強いる三枝成章も意地悪で、ひねくれて面白い。最後の佐藤聡明『沈黙』。これがもっとも伝統楽器の三絃の響きを生かしきったこのアルバムでのベストと私には思われる。その三絃の響きの歴史性、奥深さを普遍としての音の姿としても同様、しっかりと真摯に問いかけている見事さは、武満徹同様賞賛に値する。三絃の余韻とそれを生かし支える沈黙。きっと耳そばだてて、三絃の響き、奏者の合いの手の気のこもった発声に≪日本音楽の気合と間≫(長尾一雄)を強く感じさせられることだろう。≪われわれの伝統音楽の特質は、その一音一音に秘められた限りない沈黙の深さだろう。それは、永い時にはぐくまれた、繊細な感性の極みであり、ほとんど宗教的なものにまで崇められている。永遠が一瞬の一音の中に込められ、沈黙が、無限の呼吸のように、まざまざと息づくことを希んだ。≫(作曲者・佐藤聡明)彼はまたこうも詠っている≪大いなる沈黙の大海(おおわだ)よ、無音のうねりよ、一滴(ひとしずく)の限りない宇宙は胎内にはらむ、あの永遠の瞬間≫。間違いなく素晴らしい作品である。こうした作品に聴く三絃の音に古臭さを聞くどころか遠くからの呼びかけのような懐かしさと心の安寧を覚えるから不思議である。≪通常、一の糸の巻き取り部の近くに「さわり」と呼ばれるしくみがある。これは一の糸の開放弦をわずかに棹に接触させることによって「ビーン」という音を出させるもので、倍音成分を増やして音色に味を付け、響きを延ばす効果がある。これによって発する音は一種のノイズであるが、三味線の音には欠かせないものである。「さわり」の機構を持つ楽器は琵琶など他にもあるが、三味線の特徴は一の糸のみに「さわり」がついているにもかかわらず、二の糸や三の糸の特定の押さえる場所にも(調弦法により変化する)、共鳴によって同様の効果をもつ音があることである。これにより響きが豊かになるとともに、調弦の種類により共鳴する音が変わるので、その調弦法独特の雰囲気をかもし出す要因ともなっている。≫(WIKIPEDIA)こうした雑音(ノイズ)さえも自然な音楽感性に取り入れた民俗伝統邦楽器のひとつ三絃を聴く、我が固有の至福も捨てがたいものである。三絃、西潟昭子聴くべしである。