yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

影向する尺八吹き抜ける息、一陣の風。広瀬量平(1930)の『成・VIVARTA』(1974)

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人間は生を享けるとともに呼吸を開始し、その停止をもって生を閉じる。気息は生命の本質である。マクロコスモスの気息が象徴として自然の風であり、ミクロコスモスの気息が象徴として人間の息である。宇宙、自然も息をする生命体であり、息する人間もまた宇宙原理の大いなる気息に貫通する生命体である。実体としての本質をおかぬ仏教思想(=無我、空)が息を吹きつけ鳴らす法器・尺八に一音成仏としての悟りを開くとしたのはそうした根本思想ゆえでもあったのだろう。≪歴史から見ると、アラビアの葦笛ナイが、奈良時代に日本に渡ってきて尺八となったわけですが、<ナイ>を奏でるには、まず、人間の頭の中を楽器として、つまり口笛を吹いて、それをそのまま笛に送りこむ。尺八は人間の自然の息が基本ですから、奏法はまったく違います。アラビアから長い旅路のはてに日本に伝来した尺八は、日本人の生き方、感性を生に音にする、呼吸そのものの楽器として変貌したのでしょうね。≫(小泉文夫「呼吸する民族音楽」・遊1002)≪尺八は元来楽器としてではなく、普化宗禅宗の一派)の法器として日本に渡来し、読経の代わりにこれを用い、普化宗以外の者の吹奏を禁じた。ということは、みずから「一音成仏(いちおんじょうぶつ)」、「吹禅(すいぜん)」、「虚無一声(きょむいっせい)」といった言葉が示すがごとく、他人に演奏を聴かせる等の目的でなく、自己の内的なるものに強く働きかける音の世界であり、また、人間の怒り、苦しみ、悲しみ等を、すべて一管に託して、心のよりどころにした器である。こうした孤の世界といったものを強く求めた要因により、他の音楽には類のないひと息、ひと節の無拍(無拍子)の楽曲が数多く誕生した。これらの演奏について奏者に要求されるものは必然的に小手先のテクニックでない、気迫とか精神性が強く要求されることとなった。≫(酒井竹保)今回取りあげるのは尺八・山本邦山演奏による広瀬量平(1930)『成・VIVARTA』(1974)である。A面、一曲目は尺八独奏のための『鶴林』。≪鶴林、もしくは鶴の林とは釈迦がクシナガラ郊外の沙羅の林で入滅したとき、その林の木々が枯れて鶴の羽毛のように白くなったと大般涅槃経に書かれている≫(広瀬量平)また日本文学ではそうしたことを背景にたとえば「煙絶え雪降りしける鳥野辺は鶴の林の心地こそすれ」とも詠われているそうである。ここでは、この歌が象徴するような深々と静やかな中、大いなる嘆き悲しみの吹き抜ける尺八の音色を心奥深く余情のうちに聴くことだろう。二曲目は二つの尺八のための『秋』。≪秋、草々や木々、鳥、木霊、そしてそれら自然にすべて霊が宿るという汎神論的世界観、不思議な対話、一瞬の煌きと揺らぐ心、詠嘆、瞑想と内省、風、自然への愛、そして内心の修羅、叫び≫(広瀬量平)作曲家自身そうした想念渦巻くなか作曲されたとコメントしている。尺八二本ということもあり、より豊麗に、幽韻の尺八対話がおこなわれる。B面三曲目は尺八・チェロ・打楽器という構成の『彩』。擦弦のチェロの軋みと撃ちつける打楽器に尺八はこころ乱され懊悩をもって、柔らかくまた激しく吹き応える。最後のアルバムタイトルにもなっている『成・VIVARTA』。これは、チェロ、児童合唱、三人の打楽器という少し大掛かりな構成のもの。児童合唱・人声がひじょうに効果的で生きている。まことに聴き応えのあるドラマティックないい作品に仕上がっている。尺八をもってする仏教思想の壮大な叙事的音楽展開といえようか。気息、呻き、地鳴りするうねる荒々しい打楽器の響き。児童の祈りの歌、寄り添う哀しみおびた尺八の響き。尺八とともに鈴や鐘の音に仏は影向(ようごう)するや。そのような風情で終わる。≪五世紀に書かれた仏典「倶舎論」には、古いインドの宇宙観が著されている。宇宙の生成と生物の出現と繁栄、やがてその破滅とこの世の終り、破滅にいたるまでのさまざまな地獄,たとえば八寒地獄という寒さの地獄、餓えの地獄、人間を焼き尽くす炎の地獄の有様が刻明に書かれている。そして滅び去った後の、有機物も無機物もない絶対無の空間に、かすかな一陣の風が吹き、それとともに再び新しい宇宙がはじまり、生命が生まれるという壮大な記述に強い感動をうけた。亡び去った前世の万感の思いをこめて吹くこの一吹きの風・・・・・尺八の音はまさに風であり、そして息である。人の声も風でありまた息であり、それが叫びや歌にもなる・・・私はこの曲でささやかな風、そして息をもとにして作曲しようと思った≫(広瀬量平)影向(ようごう)する尺八吹き抜ける息、一陣の風。


≪一陣の風にはすべてが含まれていて、その風を呑むわれわれは宇宙の風の呼吸を呼吸しているのだ≫

       一は一にあらずして一なり、無数を一となす。

       如は如にあらずして常なり、同同相似なり。

                      空海『吽字義(うんじぎ)』

≪風は呼吸です。呼吸は風です。その風と呼吸によってわれわれの言葉というものが出入りする。
     それなら、言葉も風なのです。まさに言葉は風に舞う「言の葉」なのでした。≫
                  
                   松岡正剛『花鳥風月の科学』(淡交社・1994)