松岡正剛の思想(存在論)の原基を思い聴く、曹洞集大本山永平寺の僧による『般若心経』
別にどの宗派でもよく、たまたま曹洞集大本山永平寺の僧による『般若心経』の読経が収録されたアルバムである。経の何たるかを抜きにしても、複数人の読経に特徴的に聴ける、微妙にずれるユニゾンはことのほか気分のいいものである。このアルバムにはこのほかに『修証義』、『観音経』が入っている。音楽の源としてもいいものであり、没我でのユニゾンのズレの味わいはなんとも気持ちのよいものである。
≪「空」はむなしさではない。
むしろ、「空」はガランドウであり、
きわめてスッキリとした陽気なもののような気がする。≫
むしろ、「空」はガランドウであり、
きわめてスッキリとした陽気なもののような気がする。≫
(松岡正剛「言語物質論・経を読む」1979)
≪日本語では「空」を「ウツ」と読む。どちらかというと僕は「クウ」と読むより「ウツ」と読んだ方がわかりやすい方で、ウツとは中心がないこと、あるいは中心に何もないことを言う。日本のカミはそういうところへ降りてくるし、また去って行く。ウツはまた、この語根からウツツという単語をつくります。ウツツは「夢うつつ」のウツツで、漢字で綴れば「現」という文字になる。「空なるウツ」から「現なるウツツ」が派生しているところ、そこが大変に興味深い。ふつうは空虚と現実はまったく逆のものと考えられているにもかかわらず、実際にはウツからウツツが出ている。ということは、「現」というものも一種の「仮」であって、その背後には「空」が控えているということなのです。古代日本語を見ていると、そのへんの按配がよくわかります。ウツはまたウツツとかウツスという語にも転位します。ウツスは「移す」であって、「映す」であって、「写す」です。ここにはいわゆる<イメージ>というものの構造が予知されている。写像とか映像というものが、結局はウツを源流としていることがよくわかる。僕は「空」というものをこのようにも理解する。だから、「空」は単なるむなしさとはなりえないんだ。ニヒリズムとはだいぶんちがうものである。――そう断言できるわけです≫(以下引用すべて松岡正剛「言語物質論・経を読む」1979より)。このガランドウとしてのウツ論こそは松岡正剛言うところの面影(おもかげ)と影向(ようごう)うつろいに、日本の文化を斬って見せたキーコンセプトである。ハイデガーの「現存在」の「現」を「ウツツ」と言い換えた時にぱぁーと広がる開放感はこの移り行きの一挙流入にあるのだろう。【色不異空(しき ふ い くう)空不異色(くう ふ い しき)色即是空(しき そく ぜ くう)空即是色(くう そく ぜ しき)】以下、色を(物質)とおおよそ読み替えて可。≪色というものは空に異ならず、空というものもまた色に異ならない。だから色とはすなはち空であり、空はすなわち色である。≫と、すべては空と断ぜられる。この順序逆転のすばやい畳み込みに人は考えるすべを失う。≪「植物は観念である」と言った人が、直ちに「観念は植物である」とは切り返せない。そこに主語―述語のいかんともしがたい私有関係が発生してきて、それにとらわれてしまう。スートラ(経)はそこを突く。色と空の否定関係を立てて、すぐこの主従関係を逆転させ、その解体の作業仮説のさなかに、新たに色と空の肯定関係をさしこむわけです。こうしてみると、だんだん「色」とか「空」とかの概念それ自身まで薄明化(トワイライト)してくるのです。AはBではない、BはAではない、AはBだ、BはAだ・・・・こうやっていくと、ついにAそのものとかBそのものはどうでもよくて、やがて「ない」と「ある」というとても両立しがたいものまでもが近接してきます。これこそ、<相似律>というべきである。もはや同定でも異定でもない。ぴったり同じうしようとする辛さ、いつも違いをほじくりだそうとする辛さ、この両方がトワイライト化する。スミレ色に近くなる。そこがいい。そこがこの有名なマントラ(真言)のすばらしいエディトリアルになっている。そこにヘラクレイトスの「アンキバシエー」(近接)やハイデガーの「近さ―の―内へ―入れ」がやってくる。・・・・「色」というのは、前に言ったように基本的には物質的なるものを指している。原語は「ルーパ」である。Rupaは、rupという語根から生まれたもので、これは「形づくる」という意味である。ところが、ちょっとおもしろいのは、このrupは「壊す」というruからも出ている。「壊し行くもの」「変化するもの」といった意味がある。つまりこの世で形をもつものというものは、つねにそれが別の形から次の形に移ろうとしているせいである。――ということになる。これを漢語では昔から「変壊」(へんね)とか「質礙」(しつげ)と言います。よく、融通無礙(ゆうずうむげ)なんていうけれど、その礙です。こうしてみると、「色」とはゲーテが主唱したような「原形態」とか「ビルト」ということに近いことが判明します。「ビルト」は粋に訳せば<おもかげ>ということです。物質形態には必ずその形態の奥深いところでカタチを運んでいる<おもかげ>のようなものがあると考えられる。それが生成消滅をわれわれにプロジェクトしている要因力になっている。「色」とはそういうものだ。≫モノ、カタチの背後にひきつれうごめくもの、うつろい行くもの、存在のそうした気配、動向にこそ凝り固まった観念、概念を突破る何かがあるのだ。イメージの源郷でもある。≪われわれの存在と論理の関係は、これが進行すればするほど主語力の重みが自分に付着してくるという矛盾をかかえます。しかし、そこを突破しなければならない。主語を費いつつ、主語を目立たさなくするべきであり、ついにはこれを必要としなくなるところまで行くべきである。「私」の放棄です。・・・・われわれはどこかで発生してしまった存在である。発生を意図して発生してきたのではない。われわれには<発生の手前>というものがある。ここには本来の主語はなかったはずです。もともとは無為的主語であったはずです。それが有為的主語に変質してしまった。一人称が力をもってしまった。この一人称はやがて増殖に増殖を重ねて、ついに国家大にまでなる。「私はフランスだ」などと言ったド・ゴールまで進んでしまう。バカなことです!この一人称の重力をどこかでとっぱらう必要がある。それはいわば述語化である。自己の述語的自然化である。≫。私を、人生を、語るばかりでは堂々巡り、重くなるばかりである。そこには抜け切れない一人称の陥穽が無いとはいいきれまい。松岡正剛の存在論の核心はたぶんこの辺あたりだろう。般若心経を読み、相似にとどめるスミレ色の存在へと私を投げ、「現」ウツツへと私をあけわたそう。そのためにもの般若心経であるだろう。
般若心経逐語解説http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
観自在菩薩
かん じ ざい ぼ さつ
行深般若波羅蜜多時
ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ
照見五蘊皆空
しょう けん ご うん かい くう
度一切苦厄
ど いっ さい く やく
舎利子
しゃ り し
色不異空
しき ふ い くう
空不異色
くう ふ い しき
色即是空
しき そく ぜ くう
空即是色
くう そく ぜ しき
受想行識亦復如是
じゅ そう ぎょう しき やく ぶ にょ ぜ
舎利子
しゃ り し
是諸法空相
ぜ しょ ほう くう そう
不生不滅
ふ しょう ふ めつ
不垢不浄
ふ く ふ じょう
不増不減
ふ ぞう ふ げん
是故空中
ぜ こ くう ちゅう
無色
む しき
無受想行識
む じゅ そう ぎょう しき
無眼耳鼻舌身意
む げん に び ぜっ しん い
無色声香味触法
む しき しょう こう み そく ほう
無眼界
む げん かい
乃至無意識界
ない し む い しき かい
無明亦
む む みょう やく
無無明尽
む む みょう じん
乃至無老死
ない し む ろう し
亦無老死尽
やく む ろう し じん
無苦集滅道
む く しゅう めつ どう
無智亦無得
む ち やく む とく
以無所得故
い む しょ とく こ
菩提薩埵
ぼ だい さつ た
依般若波羅蜜多故
え はん にゃ は ら みっ た こ
心無罣礙
しん む けい げ
無罣礙故
む けい げ こ
無有恐怖
む う く ふ
遠離一切顛倒夢想
おん り いっ さい てん どう む そう
究竟涅槃
くう ぎょう ね はん
三世諸仏
さん ぜ しょ ぶつ
依般若波羅蜜多故
え はん にゃ は ら みっ た こ
得阿耨多羅三藐三菩提
とく あの く た ら さん みゃく さん ぼ だい
故知般若
こ ち はん にゃ
羅蜜多
は ら みっ た
是大神呪
ぜ だい じん しゅ
是大明呪
ぜ だい みょう しゅ
是無上呪
ぜ む じょう しゅ
是無等等呪
ぜ む とう どう しゅ
能除一切苦
のう じょ いっ さい く
真実不虚
しん じつ ふ こ
故説般若波羅蜜多呪
こ せつ はん にゃ は ら みっ た しゅ
即説呪日
そく せつ しゅ わっ
羯諦
ぎゃ てい
羯諦
ぎゃ てい
波羅羯諦
は ら ぎゃ てい
波羅僧羯諦
は ら そう ぎゃ てい
菩提薩婆訶
ぼ じ そ わ か
般若心経
はん にゃ しん ぎょう(般若心経音声)http://jin.zen.or.jp/~sato/bunko/oto.html
般若心経逐語解説http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm
観自在菩薩
かん じ ざい ぼ さつ
行深般若波羅蜜多時
ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ
照見五蘊皆空
しょう けん ご うん かい くう
度一切苦厄
ど いっ さい く やく
舎利子
しゃ り し
色不異空
しき ふ い くう
空不異色
くう ふ い しき
色即是空
しき そく ぜ くう
空即是色
くう そく ぜ しき
受想行識亦復如是
じゅ そう ぎょう しき やく ぶ にょ ぜ
舎利子
しゃ り し
是諸法空相
ぜ しょ ほう くう そう
不生不滅
ふ しょう ふ めつ
不垢不浄
ふ く ふ じょう
不増不減
ふ ぞう ふ げん
是故空中
ぜ こ くう ちゅう
無色
む しき
無受想行識
む じゅ そう ぎょう しき
無眼耳鼻舌身意
む げん に び ぜっ しん い
無色声香味触法
む しき しょう こう み そく ほう
無眼界
む げん かい
乃至無意識界
ない し む い しき かい
無明亦
む む みょう やく
無無明尽
む む みょう じん
乃至無老死
ない し む ろう し
亦無老死尽
やく む ろう し じん
無苦集滅道
む く しゅう めつ どう
無智亦無得
む ち やく む とく
以無所得故
い む しょ とく こ
菩提薩埵
ぼ だい さつ た
依般若波羅蜜多故
え はん にゃ は ら みっ た こ
心無罣礙
しん む けい げ
無罣礙故
む けい げ こ
無有恐怖
む う く ふ
遠離一切顛倒夢想
おん り いっ さい てん どう む そう
究竟涅槃
くう ぎょう ね はん
三世諸仏
さん ぜ しょ ぶつ
依般若波羅蜜多故
え はん にゃ は ら みっ た こ
得阿耨多羅三藐三菩提
とく あの く た ら さん みゃく さん ぼ だい
故知般若
こ ち はん にゃ
羅蜜多
は ら みっ た
是大神呪
ぜ だい じん しゅ
是大明呪
ぜ だい みょう しゅ
是無上呪
ぜ む じょう しゅ
是無等等呪
ぜ む とう どう しゅ
能除一切苦
のう じょ いっ さい く
真実不虚
しん じつ ふ こ
故説般若波羅蜜多呪
こ せつ はん にゃ は ら みっ た しゅ
即説呪日
そく せつ しゅ わっ
羯諦
ぎゃ てい
羯諦
ぎゃ てい
波羅羯諦
は ら ぎゃ てい
波羅僧羯諦
は ら そう ぎゃ てい
菩提薩婆訶
ぼ じ そ わ か
般若心経
はん にゃ しん ぎょう(般若心経音声)http://jin.zen.or.jp/~sato/bunko/oto.html