yuki-midorinomoriの日記

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相似にとどめるトワイライトなスミレ色の存在・「現」ウツツへの私の放下。松岡正剛『言語物質論(ろ)経を読む』(1979)

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ブログトップ画像三匹の子犬の母親、我が家の柴犬はことのほか、カミナリと風に煽られバタバタと音たてるシートが恐怖である。しきりに音立てバサバサと不連続に不定形に踊り動くシートに吠え立てるばかりである。その現象の因果が了解不能だからだ。これは人間とて同じことだろう。古来よりカミナリは神なり(神鳴り)であり、神主がうち降るサカ木に、また注連縄(しめなわ)に、神の依り代たるヒモロギなどにみる雷光をかたどったギザギザに切り刻まれた紙【ヌサ、ユフ、シデ、総称して幣帛(へいはく)】を見れば、それが象徴として如何なる恐怖もたらす天上の存在だったかわかろうと言うものだ。音になに事かの音連れ、気配感じる感性はその存在性ゆえ今もってヒトから失われてはいない。ただ関係性が了解のうちにあるから恐怖となりえないだけで、今日でも関係付けできず了解しがたい音、出来事の出現は恐怖、不安を感じることだろう。そこに神が忍び寄り、神を天上に戴くにいたるのはたぶん人間だけなのだろう。意識(存在)とは関係性であるからだ。それが神でなく、科学であっても同じことだ。この科学技術時代のこんにちであっても未知なるものへの恐怖、不安はなくなりはしない。次から次の新事態の到来、よりいっそうの怪奇が、了解不能のカオスが増すばかりである。もはや神と云わないだけで、畏怖する事態はなくなりはしない。ロケット打ち上げに神主がサカキ降りまわしたところで、成功のおぼつかなさ、不測の事態は分かりはしない。神頼みになったとて不思議はない。こんにち神が死んだとて人間の絶対的可能性、死の存在性(事態)、不安の意識がなくならない以上、何かをもってその代替とすることは無くなりはしない。現代は制御おぼつかない科学万能社会であり、神的代替が科学技術になっているだけである。神の地位にある科学というわけだ。ますます科学の制御不能な得体の知れなさに恐怖し、ひれ伏すことだろう。遺伝子操作の果てに、ES細胞人工臓器移殖の果てに、宇宙開発の果てに、エイズの突然の出現のような不測の帰結が、いやそれ以上の事態がこないとも限らない。因果の了解不能に怖れ、鳴き吠え立てるばかりの犬を笑ってはいられない。神の消息、事態に思いを馳せ、我執(同一律)としての険しく苦しい<わたし>から、トワイライトな相似存在的事態へと「現」を解き放つ、<わたし>の放棄。その考えるよすがとして<空・うつ>から<現・ウツツ>へと独特のウツ論を展開する松岡正剛の『言語物質論(ろ)経を読む』(1979)を紐解くことは意義あることだろう。

≪「合同でなく、相似である。数学的幾何学は合同を可能にするが、自然と存在の幾何学は合同を許さない。同じうしようとするから貧しくなり、険しくなり、寂しくなる。合同とはしょせん思い上がった自意識による思いがけない孤立のことだ。すべからく似ようとするにとどめるべきである。似ようとしてそこに近づき、マルティン・ハイデガーの<近さ>を熟知した上で、合同の直前で踏みとどまらなければならない。<相似>とは攻めきらない律動のことである。」≫(松岡正剛『相似律』遊1001号)

ありうべき、本当の自分を求めて≪ぴったり同じうしようとする辛さ、いつも違いをほじくりだそうとする辛さ、この両方がトワイライト化する。スミレ色に近くなる。そこがいい。そこがこの有名なマントラ真言)のすばらしいエディトリアルになっている。≫(松岡正剛の『言語物質論(ろ)経を読む』)


相似にとどめるスミレ色の存在へと私を投げ(放下)、現存在としての現を「現」・ウツツへと(私を)あけわたそう。そのためにもの般若心経であるだろう。