yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

近藤等則、ヘンリー・カイザー、アンドレア・センタッツオのフリーインプロヴィゼーション・デュオアルバム。『プロトコル・Protocol』(1978)

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なにを思ってこのアルバムを購入したかまったく記憶がない。たぶん近藤等則の名前が見えたからだろうか。いやそれとも、ギタリストのヘンリー・カイザーHenry Kaiser、パーカッションのアンドレア・センタッツオAndrea Centazzoの組み合わせゆえだったかもしれない。
近藤等則(1948)はフリー系で活動しており一応聴いてはいたものの、たぶん聴き流す、あるいはお付き合いという程度であったのかもしれない。何せJ・フリーの悪しき中途半端性にはいささか興ざめていたので一括りにして済ませていたのだろう。
毎度の言葉で我ながら、謂うのもいい加減憚られるけれども、<遊び=スサビ>の徹底性、いやそこまでいかなくても遊びがなさすぎた。どこかに芸術、アート<道>という高尚の思いが邪魔していたのではとも思いたくなる。破天荒に遊んで(すさんで)みせる、あるいはそのようなコラボレイトができる対者の存在がJ・フリー系に出てこなかったということなのかもしれない。
ともかく怒涛のイギリス、ドイツほかヨーロッパの凄まじいばかりのうねりに比べると総体的にはこじんまりとかつ燃焼度の低いものであった。つい最近はじめて、実に20数年ぶりにレコード屋なる店に足を踏み入れた。これもこのブログを始めたせいでもあるけれど。名に聞く梅田・タワーレコードであった。
当方ジャズのコーナーはてっきりポップスのそばにあるものと思いきや、クラシックコーナーの方ではないか。もうこれでジャズの行く末決まりだなと思ったものであった。要するに殿堂入りということだろうか。シルバー・オールドファンとごく一部の若い世代のファンでチマチマとその命脈保つのだなとの印象をした。もっとも60年代もそうだったのかもしれない。私自身も内側に居ただけにそうしたことが了解できなかっただけかもしれない。
こんにちジャズよりロックのほうが刺激的、実験的であるのは確かなことである。車中流れてくるラジオ放送で、驚き、新鮮さをもたらしてくれるのは間違いなくロックである。ジャズはこの先古典音楽として、たぶん演歌と同じような衰退という命脈をもつのだろう。
そんなことはともかく、このアルバムは、いま気がついたけれど、黒サングラス黒づくめの装束を身にまとい、アナーキーで意味不明瞭な評論をもって、しかしバイタリティ溢れる活動で名を馳せていた間章(Aquirax Aida、1946-78)のSpirit and Memoryに捧げるとの小さな文字が記されているのに気付いた。隠然とした影響力があったのだなとおもった。
ここでは、A面、近藤等則のトランペットとヘンリー・カイザーのエレクトリックギターとのフリーインプロヴィゼーション・デュオと、B面、アンドレア・センタッツオの電気変調されたパーカッションとヘンリー・カイザーのエレクトリックギターとのおなじくフリーインプロヴィゼーション・デュオである。
ここでの近藤等則は素晴らしい。ヘンリー・カイザーのエレクトリックギターに誘い出されるようにして極限まで内側へ音をねじ込んでゆく精神の緊張が耳そばだたせる。
ドラムのミルフォード・グレイヴスとのインタープレイのときにも思ったけれど対者次第という印象がはなはだ強い。多くを聴いていないので断じるのは不謹慎かもしれないけれど、国産プレーヤーとのコラボには感心するようなものに出会ったことのないのも確かなことである。
さてところでB面のアンドレア・センタッツオとヘンリー・カイザーとのフリーインプロヴィゼーション・デュオのほうがはるかにおもしろいという結論は、なにを意味するのだろう。時間もなくなってきた。またの機会としよう。『プロトコル・Protocol』1978年録音されたものだそうである。