yuki-midorinomoriの日記

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『神ちゃま』!に流した涙。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第五編より

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                        (上)香月泰男『青の太陽』
                        (下)香月泰男『告別』


        頭から熱湯、二歳児死なす

  ≪調べに「言うことを聞かなかった。約一ヶ月前からほぼ毎日、棒で殴ったり、けったりした」≫

                              ――2006-7-6 日本経済新聞――


Arvo Pärt Berlin Mass: Sanctus.m4v

           

≪子供のことなら、僕のコレクションの中にもっとおもしろい話がある。ぼくはロシアの子供の話をうんと集めてるんだよ。アリョーシャ。五つになるちっちゃな女の子が、両親に憎まれた話もある。この両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだ。僕はいま一度はっきり断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ。もっとも子供に限るのだ。ほかの有象無象にたいするときには、もっとも冷酷な虐待者も、博愛心に満ちた教養あるヨーロッパ人でございというような顔をして、慇懃謙遜な態度を示すが、そのくせ子供をいじめることが好きで、この意味において子供そのものまでが好きなのだ。つまり、子供のたよりなさがこの種の嗜虐者の心をそそるのだ。どこといって行くところのない、だれといってたよるもののない小さい子供の、天使のような信じやすい心――これが暴君のいまわしい血潮を沸かすのだ。もちろん、あらゆる人間の中には野獣がひそんでいる。それはおこりっぽい野獣、責めさいなまれる犠牲の叫び声に情欲的な血潮を沸かす野獣、鎖を放たれて抑制を知らぬ野獣、淫蕩のために通風だの肝臓病だのいろいろな病気にとっつかれた野獣なのだ。で、その五つになる女の子を、教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ。自分でもなんのためやらわからないで、ただ無性にぶつ、たたく、ける、しまいには、いたいけな子供のからだが一めん紫ばれに成ってしまった。が、とうとうそれにも飽きて、巧妙な技巧を弄するようになった。ほかでもない、凍てつくような極寒の時節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ。(いったい天使のようにすやすやと寝入っている五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせるような知恵があると思っているのかしら)。そうして、もらしたうんこをその子の顔に塗りつけたり、むりやり食べさしたりするのだ。しかも、これが現在の母親の仕事なんだからね!この母親は、よる夜なかきたないところへ閉じ込められた哀れな子供のうめき声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか!お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけなこぶしを固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が、説明できるかい、おまえはぼくの親友だ、神につかえる修行僧だ、いったいなんの必要があってこんな不合理がつくり出されたのか?一つ説明してくれないか!この不合理がなくては、人間は地上に生活してゆかれない、なんとなれば、善悪を認識することができないから、などと人は言うけれども、こんな価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにある?もしそうなら、認識の世界ぜんたいをあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。ぼくはおとなの苦痛のことは言わない。おとなは禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になったてかまやしない。ぼくが言うのは、ただ子供だ、子供だけだ!アリョーシャ、ぼくはおまえを苦しめているようだね。まるで人心地もなさそうだね。もしなんならやめてもいいよ。「かまいません、ぼくもやはり苦しみたいんですから」とアリョーシャはつぶやいた。≫
     ・・・・・
≪しかし、、ぼくはそのとき『主よ』と叫びたくないよ。まだ時日のある間に、ぼくは急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら価しないからだ!なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、あがなわれることなくして棄てられたからだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない。でなければ、調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなおうというのだ?それはそもそもできることだろうか?それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか?しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要ない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか!それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。ぼくはゆるしたいのだ。抱擁したいのだ。決して人間がこれ以上苦しむことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすのに必要だというなら、ぼくは前からきっぱり断言しておく、――いっさいの真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁したってかまわない!母親だってその暴君をゆるす権利はないのだ!もしたって望むなら、自分だけの分をゆるすがいい、自分の母親としての無量の苦痛をゆるしてやるがいい、しかし、八つ裂きにされたわが子の苦痛は、決してゆるす権利を持っていない。たとえわが子がゆるすと言っても、その暴君をゆるすわけにはいかないのだ!もしそうとすれば、もしみんながゆるす権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和がありうるんだ?いったいこの世界に、ゆるすという権利を持った人がいるだろうか?ぼくは調和なぞほしくない、つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえぼくの考えがまちがっていても、あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。それに、調和ってやつがあまり高く値踏みされてるから、そんな入場料を払うのはまるでぼくらのふところにあわないよ。だから、ぼくは自分の入場券を急いでお返しする。もしぼくが潔癖な人間であるならば、できるだけ早くお返しするのが義務なのだよ。そこで、ぼくはそれを実行するのだ。ねえ、アリョーシャ、ぼくは神さまを承認しないのじゃない、ただ『調和』の入場券をつつしんでお返しするだけだ。「それは謀反です」とアリョーシャは目を伏せながら小さな声で言った。「謀反?ぼくはおまえからそんなことばを聞きたくなかったんだよ」とイヴァンはしみじみとした声で言った。「謀反などで生きてゆかれるかい。ぼくは生きてゆきたいんだからね。さあ、ぼくはおまえを名指してきくから、まっすぐに返事をしてくれ。いいかい、かりにだね、おまえが究極において人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもち、人類の運命の塔を築いているものとして、このためにはただ一つのちっぽけな生物を――例のいたいけなこぶしを固めて自分の胸を打った女の子でもいい、――ぜがひでも苦しめなければならない、この子供のあがなわれざる涙の上でなければ、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかね。さあ、偽らずに言ってみな!「いいえ、承諾するわけにはゆきません」とアリョーシャは小さな声で言った。「それから、世界の人間が小さな受難者の、償われざる血潮のうえに建てられた幸福を甘受して、永久に幸福を楽しむだろうというような想念を、平然として許容することができるかい?」>

          (ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』第五編・Pro et Contraより)


学生時代熱狂して呼んだドストエフスキー、たぶん、もう読むこともないだろう。われながら情けないことだが、根気がなくなってしまっている。トルストイではなく、狂おしくアンビバレントにうずまく情念、ドストエフスキーだった。


   「子供のみまかりたる親の心に代わりて」良寛の詠んだ歌

          人の子の遊ぶをみればにはたづみ流るる涙とどめかねつも

          去年(こぞ)の春折りて見せつる梅の花今は手向けとなりにけるかも

                                    ―――良寛




ドストエフスキー関連投稿記事――

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/44976096.html 『人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです』(ドストエフスキー

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/57374580.html ホコリまみれの、1969年に公開されたソ連制作の映画のパンフレット、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』。