yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

享年47才早逝の俊才、矢代 秋雄(1929-1976)「弦楽四重奏曲」(1955)、「ピアノソナタ」(1961)、「2本のフルートとピアノのためのソナタ」(1958)

イメージ 1

矢代秋雄 / Yashiro Akio 《1 from SONATA pour Piano》

             

≪池内先生はおっしゃっておりました。「三善は天才です。矢代は俊才です。」と。≫(ネット記事より)

矢代秋雄がこの3つの作品で実現しているのは、西洋音楽の形式と論理の拡大との総決算である。非常に豊かな知識と技術の持ち主であった矢代は、西洋の伝統の中に深く入り込むと同時に、自らの耳と指によって自らの音楽を生み出す。この日本における最初の<完全な楽長>は、絶えず演奏行為を重視しながら、ある中心音を中軸とし循環主題を用い、微妙に変化するリズム法を駆使して緻密でしかも安定した音と響きの空間と時間を作り出すのである。その安定した流麗な響きは、たえず、みごとな形式的な平衡感覚に支えられている。このような調和に満ちた静かな音楽の世界は、洋楽の長い歴史のなかでも矢代秋雄によってはじめて書かれたものであり、混乱している現代の日本の作曲界では、矢代以後には決してよみがえってこないものと考えてよいだろう。≫(船山隆)
ずいぶんと長いレコード解説文よりの引用となった。なに不足無い、これ以上ない、このものズバリのすぐれた評言だろうか。矢代 秋雄(1929-1976)。生年で見ると黛敏郎松村禎三間宮芳生(みちお)、湯浅譲二らが1929年と矢代 秋雄と同年である。なかでも秀才ぶりはつとに有名であったらしい。フランス政府給費留学生として黛敏郎とおなじく彼の地へ渡り、すぐに帰国の途についた黛敏郎とちがい、くそまじめにおおよそ7年に亘り修学に勉めている。≪「いつも統一のとれた完璧のスタイルと、きめの細かい仕上げをするという習慣」を学んだ。1956年に帰国≫秀才のゆえんであるのだろう。
≪1949年東京芸術大学音楽学部本科を首席で卒業し、研究科へ進学して1951年に修了する。同年8月、フランス政府給費留学生として、パリ音楽院に入学。ナディア・ブーランジェにピアノ伴奏法を、ジャック・ドゥ・ラ・ブレルとアンリ・シャランに和声を、ノエル・ギャロンに対位法を、トニー・オーバンとオリヴィエ・メシアンに作曲と管弦楽法を学ぶ。1956年帰国。1968年、東京芸術大学助教授に就任。1974年、東京芸術大学教授となる。1976年、心不全により急逝。≫(WIKIPEDIA)享年47才という惜しまれての死ということである。その完璧主義ゆえだそうであるが、自らが習作時代の作品と称しているものを除けばわずか八曲である。
《主要作品》ピアノ三重奏曲(1948)、ピアノ連弾のための古典組曲(1951)、弦楽四重奏曲(1955)、交響曲(1958)、2本のフルートとピアノのためのソナタ(1958)、チェロ協奏曲(1960)、ピアノソナタ(1961)、ピアノ協奏曲(1967)。芸大教職という拘束にありつつとはいえ、やはり寡作とはいえるだろうか。今回この採り上げているアルバムには弦楽四重奏曲(1955)、ピアノソナタ(1961)、2本のフルートとピアノのためのソナタ(1958)の三曲が収録されている廉価盤(1979)のものである。この解説によると弦楽四重奏曲は1956年の帰国後、初演され<毎日音楽賞>を受賞、矢代 秋雄の名を世に知らしめる事となったということである。だがこの作品は、留学先のパリ音楽院での卒業作品としてコンクールに出されたものの、二名の審査員以外には芳しいものではなかったそうである。しかしその審査員の強い推挙によりフランス国立放送にてパレナン四重奏団演奏で初演されたということである。たしかにこれらの曲を聴くと、絶対音楽としての西洋伝統技法の修得、彫琢の昇華は認めざるをえないほどの成果ではあるだろうし、見事だとの評価は誰しも否定はできはしないだろう。留学先での妹の訃報に接しての追悼の意もあっただろう二楽章の哀切な美しさなどは特筆である。とはいうものの、音楽に<音楽外的なもの>を持ち込むことを極度に嫌っていた絶対音楽主義者、矢代 秋雄は次のようなことを言っていったそうである。≪「(前略)学校制度の改革により、1949年5月になると音楽学校は美術学校と合併して、東京芸術大学に昇格することがすでに決定されていた。音楽学校の最後の校長は夏目漱石の高弟、小宮豊隆であった。彼は技術優先の音楽家が生まれること、つまり『内部を欠いた外部』がはびこることを恐れ、この学制改革を奇貨として、『一般教養』によってバランスをとるべきだと主張した。しかし歴史のサイクルは一巡りして、近年、戦後の「一般教養」体制は大学の重点化と共に崩壊した。作曲家の矢代秋雄は今から40年も前、学生たちに早くもこう諭していた。『音楽家も、よき社会人であるためには、音楽以外の教養をもつべきであると言うけど、ジョウダン言っちゃいけない。これはゼンゼン話が逆である。私なら、よき社会人になるためには、まず、よき音楽家になりなさいと言いたいところである。(中略)毎日、毎日、コツコツと時計屋みたいに仕事をしなきゃ』。矢代は大好きな時計職人の喩えを持ち出して、付け焼き刃の『サア、教養つけまショ』主義を軽蔑した。(後略)」≫(ネット記事より引用)。いかにも秀才の言い草である。当の大学、東京芸大が、西洋にある飛び級などを認めるその道の完全なエリート養成のための特化した大学ではないという現実的な位相を抜きに斯く語って平然としえる見識のなさがアルファーでありオメガーであるといま指摘できはしないだろうか。現実をそれ(あらゆる要素のない交ぜ)として認め認識することから世界を組み立てることができない唯我、秀才、俊英の限界ともいえよう。現実の汚濁、遅鈍、愚鈍さを馬鹿にしてはいけない。避けようもなく、それは、そこに、そうしてあるものだ。そこ以外、何の立脚、レーゾンデートルがあるというのだろうか。日本の、己の出自を省みず何の普遍存在か。すぐれて普遍とは西洋の技法、書法の研鑽修得、極めにあるわけではなかろう。西洋を純化したところで何ほどのことがなしえようか。美しく完成された音楽に飽き足りなさを憶えるのは、ひるがえれば聴者の健全であることの謂い以外のなにものでもないだろう。≪真の普遍性とはこういうものを言うのか・・・。日本の現代音楽がついに達した高み。それがこの演奏なのだ、と僕は思った。≫(池辺晋一郎)。これは彼に師事したこの作曲家のナクソス盤、矢代 秋雄へのコメントである。<真の普遍性>であるかどうかは私には分からないが、西洋の技法、書法の達成としては<日本の現代音楽がついに達した高み>であることは間違いはないだろう。いい作品であることは誰しも否定しはしないだろう。だが早逝とはいえ、同生年の黛敏郎松村禎三間宮芳生らの作品の質量ともの充実、後年の作品評価の軽重はどこから来るのかはいうを待たないことだろう。クセナキス、イサンユン、武満。私たちは彼らをどう聴いているのだろうか。黛敏郎松村禎三間宮芳生らをどのように聴いているのだろうか。いかんともし難い彼我の美意識の違いは≪「いつも統一のとれた完璧のスタイルと、きめの細かい仕上げをするという習慣」とした≫からは乗り越え得べくもないだろう。≪みごとな形式的な平衡感覚に支えられている。このような調和に満ちた静かな音楽の世界は、洋楽の長い歴史のなかでも八代によってはじめて書かれたものであり、混乱している現代の日本の作曲界では、八代以後には決してよみがえってこないものと考えてよいだろう。≫(船山隆)。しかし、またこうもいえる。誰もよみがえらしはしないだろう。課題は、もはやそこにはないからだと。






Akio Yashiro, Piano Concerto - 1st movement (1/2)