yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

複雑系が提示した、ゆらぎ、ズレ、相似、フラクタルなどの概念が作品に先取りゆらいでいるルチアーノ・ベリオ自作自演盤『シュマンⅣベリオ作品集』(1980)

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このアルバムの『ポインツ・オン・ザ・カーヴ・トゥ・ファインドPoints on The Curve to Find』(1973-74)を聴くと、ルチアーノ・ベリオLuciano Berio(1925-2003)が電子音楽で開発しただろう新しい音響が伝統的なオーケストラ、あるいは楽器をもって実践されているのを感じ取るのではないだろうか。反復音楽・ミニマル・ミュージックのようにも聞こえるトレモロを多用しての、その名のとおり弧を描いて揺らぎ、摂動しつつ音が美しくリリカルに奏でられ響くそのさまは、もちろんベリオ個人の音色、響きの生々しさへの、いわば声、歌などへのこだわりとも関係しているのかもしれないが、しかしルチアーノ・ベリオ電子音楽とのかかわりは、先駆者のうちの重要な一人である以上に、彼の作品創造に特段な関係があるように思える。ミラノ音楽院卒後アメリカ留学をはたし、≪アメリカの音楽界を知ったことで早くから電子音楽に関心をもち【1952年には、渡航先のアメリカで電子音楽に接し、翌年、テープ音楽《ミムジーク第1番》を制作した。この分野においては、1960年代はじめまでのおよそ10年間に、《テーマ ジョイス賛》(1958)、《ヴィザージュ》(1961)や、5人の奏者とテープによる《ディファレンス(差異)》(1959)といった、電子音楽史に名を残す作品が生まれている。】55年ミラノのイタリア国営放送局に電子音楽スタジオを創設、所長となる。専門紙も編集し、演奏会も主宰。・・・63年にはミルズ大学から招聘され、アメリカに本拠を移し、ハーバード大学ジュリアード音楽院でも教える傍ら、ジュリアード・アンサンブルを創設し、指揮する。72年、イタリアに戻り、74年、パリの(ブーレーズが設立した)IRCAM(音響・音楽の探求と調整の研究所)電子音楽部門の責任者となり、87年からはフィレンツェ市ヴィッラ・ストロッツィの研究センターで独自のコンピューター・システムを用いて制作活動を続けている。≫(WIKIPEDIA)かれの天与の抒情的感性もさることながら、このような並々ならぬ電子音楽とのかかわりの経歴を見てもベリオの豊穣なまでの音色、響きの形成に与って大きいことは肯けることだろう。ベリオの作品が≪前衛的手法と感性との≫美しく巧みな融合とよく評されるように、電子音楽が戦後科学技術時代の飛躍的な幕開けと共に開示した新しい音楽感性の受容は、彼本来がもつ以上のリリシズムの新しい姿を提示せしめることともなったのだろうか。A面1曲目の『ポインツ・オン・ザ・カーヴ・トゥ・ファインド』に聴くこととなる、ゆらぎと、ズレ、反復持続、またB面2曲目の2台のピアノ、ヴィブラフォンマリンバという構成のダンスのために最初に書き下ろした作品『リネア・Linea』(1973)では≪相似性と相違性≫という、きわめて興味深いキーコンセプトがうかがえるのも自然科学での複雑系のうごきとパラレルであり、いっそうの興味そそがれる問題ではある。こうした複雑系概念の近接は電子音楽の探求、科学技術との併走に、その因がなくはないと私には思われる。≪・・・ミニマル・ミュージックに似てさえいる。同じ旋律でありながら、あるパートのみアッチェルランドが指定されることによって生じるズレの効果。ペダルの踏み代えやアクセントの位置の移動によって生じる擬似的なズレの効果などもこの傾向を助長する。≫(松平頼暁)と『リネア・Linea』に指摘している。ジェルジ・リゲティと同様ルチアーノ・ベリオにも複雑系科学が提示した、ゆらぎ、ズレ、相似、フラクタルなどの概念が響きとして先取りするかのごとく作品にゆらいでいるのも面白く、興味つのることではある。このアルバムはベリオ自らが棒を振っての作品集である。上記2曲のほかにオーボエ独奏と13の弦楽合奏のための『シュマンⅣ・CheminsⅣ』(1975)とベリオがミラノ音楽院を卒業した1951年に作曲された、いわば最初期の作品ではあるが、習作というようなものではもちろんなく、きわめて手堅く美しくまとめ上げられた作品である『コンチェルティーノ・Concertino』(1951)の計4曲自作自演盤『シュマンⅣベリオ作品集』(1980)である。