yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ピエール・シェフェールとピエール・アンリの若きテクノ感性が切り開いた記念碑的ミュジーク・コンクレート音源

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Symphonie pour un Homme Seul

             

ミュジーク・コンクレート創始者は、フランスの電気技師ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer)である。彼は1948年頃からミュジーク・コンクレートの実験を始め、1949年頃からは作曲家ピエール・アンリ (Pierre Henri)とともに種々の実験的作品を作るようになる。シェフェールらのミュジーク・コンクレート作品は、当初、ラジオを通じて発表され、初めて聴衆を前に公開されたのは、1952年のことという。≫(WIKIPEDIA
このように、ミュージックコンクレートの歴史を語るとき必ず挙げられるのがフランス国営放送の電気技師ピエール・シェフェールと作曲家ピエール・アンリの二人である。とりわけピエール・アンリのほうは、コンセルバトワールで当代一流の多くの逸材を世に送り出したオリヴィエ・メシアン、ナディア・ブーランジェという優れた音楽家に師事したという経歴を持つ人物であるけれど、はや当初より伝統的音階の世界から自覚的に逸脱し、産業技術に音連れる雑音、騒音の組織化をミュジーク・コンクレートという手法をもっておこない、革新の先頭を疾ってきたテクノ感性には追随を許さぬ秀逸をみせる作曲家である。シンセサイザー技術の飛躍的発展の今日に至るも、エネルギッシュにテクノミュージックの創造に携わっているその意気や壮なるものがあるといえるだろう。
ところで、人は初めて出くわす事態の背後にある、何ものかへと思いをめぐらすことをやめない存在である。意味の不在には耐え得ない存在であるといえよう。人という現存在は意味連関において存在する。その意味統一性を喪失したとき現存在は存在喪失の危機に直面する。たえざる意味形成の場として現存在は存在投企をくわだて存在する。存在投企として意味は生成する。現存在にとって避けることのできない絶対可能性としての死から時間は到来し、絶えざる存在の不安、存在の無にさらされる。<誰でも死ななくちゃいけない。でも私はいつも自分は例外だと信じていた。なのに、なんてこった。>(ウィリアム・サローヤン・ネット名言集より)。
意味の背後には必ず無意味と化す死の絶対性が横たわり存在をおびやかす。現存在の存在消滅として死の不安、実存に無底の時間は到来する。そうした<現>の意味地平は、それゆえその存在根拠としての無にさらされ不確定の揺らぎにおかれても、なをかつ人が生きるかぎり時間生成として、つねなる意味への投企は避けようもない存在投企であり本質的である。<私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。>(ルソー・ネット名言集より)
だが<明日、また明日、また明日と、時はこきざみな足どりで一日一日を歩み、ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、つかの間の灯火!人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上で大げさにみえをきっても出場(でば)が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなにひとつありはしない>(シェークスピアマクベス』第5幕第5場・「シェークスピア名言集」小田島雄志
さて、人ははじめて見る事物、その発する音の存在以上のものを見、且つ聴く。そうして分節投企により意味を与え、それらを意味場に組み入れる。意味不在の不安でありつづけることはできない。なにごとかの動きを、おとずれをまさぐる。さまざまな音、光に、とりわけ科学・産業技術がはじめてもたらすそれら音、光にはいまだかって出くわしはしなかったものの訪れに感性は拡張変容する。プランクーシのあの抽象的な立体彫刻出現の背景には産業が生み出した造形の動向があるだろう。
産業技術の加速は人間感性のすべてを巻き込んで何ものかへの形成意志として果てしなく闇雲に突き進んでいる。技術はおしなべて意味であり、芸術は意味秩序を解体し無意味という意味をも志向する。モータリゼーションがもたらした速度感覚の変容。神よりの使者、鳥の目を獲得した飛行機の実現。コンピュータによる脳の外部化と情報生成。映像記録装置による空間変容、ホログラムによるヴァーチャルな空間創造。デジタル映像処理による画像合成などなど。たとえば試合中継で見られる競技場の広告が合成であるかどうか映像だけでは判断できないように、恐ろしい事態の画策さえも予感させるものではある。
そうした記録装置の出現は人の時間・空間意識を劇的に変え、リアルとヴァーチャルに意識と感性はよじれてゆく。とうぜんここでのテーマとする時間芸術の音楽もそうである。ミニマルミュージックの登場が磁気テープの出現による時間差、遅延、反復の可能実現と機を一にしていたように、このミュージックコンクレートもまた磁気記録装置、電子変調機器などの産業登場を俟って初めて可能となった。電子が世に送りだし初めて到来する音たち。<神は見えません。見えるとしたら、それはヴィジョンの中です。神はきっと光とか信号とか情報のようなものです>(松岡正剛「花鳥風月の科学」)
エントロピーの増大は無秩序への道行きであり熱的平衡の死に至る。しかし生命は逆エントロピーとして情報生成、秩序を構造化し意味を生成する。意味に支えられた具体音の解体変容、その意味のなさぬ、解体された音たちの再創造、造形に聴く新鮮な意味的地平の開け。意味と無意味の反復、ゆらぎ、戯れに創造されるテクノアートの斬新、その端緒をきった、テープを切ったり貼ったりのアナログな膨大な労苦による音源の収録された記念碑的アルバムである。
今聴いても新鮮な感動を覚えるほど見事なピエール・アンリのテクノ感性である。いずれもモダンダンスのモーリス・ベジャールのための伴奏音楽として使われたそうである。A面はピエール・アンリとピエール・シェフェールによる『一人の男のためのシンフォニー・Symphonie pour un Homme Seul』(1949-50)。B面はピアノとピアノのための『Concerto des Ambiguities』(1950)。多彩なテクノ変容がもたらす響きのなんと新鮮なことか。時代性を考えても、天才的な感性の賜物として感服する。