yuki-midorinomoriの日記

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人間ワザでは到底演奏不可能な、微分への意志コンロン・ナンカロウの自動ピアノ演奏作品集『Complete Studies for Player Piano』(1977)

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Conlon Nancarrow, study no.12

            

≪僕はいつも「ピアノの鍵盤の並び方というのはいやだ、荒っぽい」とおもうわけだけれども、それではもっと緻密に鍵盤が並んでいればよいかというとそうでもなくて、そういう荒っぽさ反抗するかたちをとりながら音の微細な構造にあこがれるわけですね≫(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」)このことは一体何を意味しているのだろうか。ニュートンライプニッツが発見した微分積分の概念は自然を変化連続性として論理のうちにとらえんとする意志の発露でもあるだろう。≪数学において、連続(れんぞく、continuous)とは、いくら拡大しても近くにあって差が無いことを示す極限概念である。≫≪接線の傾きは、点 x = a を定めるごとに決まる値で局所的な情報だが、ある程度広い範囲の点における微分を観察すると、関数の形を知ることができる。関数のグラフの曲がり具合や、その周辺では値が最も大きい点(極大)の場所などは、微分という局所的な情報から知ることができるのである。局所的な情報を集めると、大域的な情報へ繋がるのである。≫(WIKIPEDIA)だがそれらは究極のところ自然の近似でしかない論理抽象、概念世界に過ぎない。作曲家もまた八十八鍵では自然が持っている音の再現性に、抽象に不満ということなのだろう。人はそれ以上の音を聴ているのであり、自然は尽くせぬほどの音に満ちているのだ。いわく言いがたい気配動向に趣いているのだといえよう。いわゆる自然の消息を感じているのだ。≪フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけれど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言える瞬間がありますね。それを「不思議」といったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。≫(タモリ『オデッセイ』工作舎)。音の細分化、微分化の志向は、自然から別れ意識を持つ反自然存在として存在してしまったヒトの、自然の実相に近接せんとする意志の表れでもあるのだろう。<不完全な神>であるがゆえに人間として存在してしまった人間の、このあくなき全=一の<神>への希求の出どころとはそも何か?際限なく分割する無限小の極点は神的な飛躍の絶対の懸隔でることには変わりはない。≪ニュートン力学のフランスへの普及に貢献したはずのヴォルテールでさえ、微積分は「存在さえ許されないものを厳密にしようとしている技術」だと苦笑した。≫≪いわゆる「ラプラスの魔」の存在だって、微分方程式の全能ぶりに惚れての発案だった。ラプラスは、自然の運動に関するどこか1点の運動方程式がわかれば、その次の瞬間の運動もその次の瞬間の運動も確定できるのだから、宇宙のどこかにはそうした運動のすべてを知っている全知全能の魔物(決定論の魔物)がいるということを"予言"したわけで、この魔物も微積分法が正当でなければその存在は許されないはずなのである。≫(松岡正剛・千夜千冊「時間の矢」より)ここにも私たちは、もはや決着のつかない絶対の極限の懸隔を目をつぶり飛び越え自然の全一性への意志をみる。まさに絶えざる不安につきまとわれるゆえんでも在るのだろう。「えいっ」とばかりに成立した論理抽象の世界を根拠として自然は、世界は斯く在る。さてところで、こうした想念は語る必要があったのか。というのも今回採り上げるコンロン・ナンカロウがそうした形而上の問題を念頭していたかどうか、作品を聴いてる限りはなはだ疑わしいと思えて来たからでもあるけれど。≪コンロン・ナンカロウConlon Nancarrow(1912年-1997年)はアメリカ生まれで、メキシコへ亡命した現代音楽の作曲家。・・・ジャズバンドでトランペット奏者を務めた後、シンシナティで作曲を学び、ボストンでロジャー・セッションズ、ウォルター・ピストン、ニコラス・スロニムスキーに師事。その後、ニューヨークへ渡ってヘンリー・カウエルに学んだ。・・・スペイン内戦【第二共和政期のスペインで勃発した内戦。アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。】でスペインに渡り、スペイン共産党に入党したことからアメリカへの帰国を拒否され、メキシコシティに居を定める。1955年にメキシコの市民権を取得。≫(WIKIPEDIA)ピアノの特殊奏法の開拓者、民族音楽の研究から音響開発へと目を向かわし、ジョン・ケージなど革新者にも多大の影響を与えたとして有名なヘンリー・カウエルのそうした実験的試みにかれコンロン・ナンカロウも啓発されたうちの一人であった。生身の人間では到底演奏できない異常なスピード・運指をオルゴールの要領で演奏させる自動ピアノ(紙に穿孔された楽譜でオルゴールのドラムを回転させて演奏するイメージのもの)のための作曲を営々とやり続けていた風変わりな作曲家であった。この自動演奏のピアノとは、もともとは人間の演奏の代わりをつとめるために開発されたものだが、穿孔の仕方次第で人為的にはとても演奏不可能のようなとてつもない超絶ピアノ演奏、極限の微分音、複雑極まりないリズムなどを実現演奏してみせたのであった。(紙に描かれた物体形状に沿って紙へ穿孔し、その音への変換もたぶんお手の物であっただろう。こうした形状の音変換などはコンピュータでもこんにち試みられている。)もちろんこんにちではコンピュータ操作で簡単に同様のことが出来るのであってみれば、この努力は一体なんだったのかといえなくもないけれど。しかしその先覚の緒発の<音>なるものへの微分への意志は、先の武満徹の言葉のように普遍の試みとしておおいに称揚されるべきことではあるだろう。若き日、スペインという他国の共産党員であった前歴ゆえ、自由の国アメリカに帰国叶わず、メキシコに居を構え尚且つ特異な作曲活動ゆえに≪長く正当な評価を得ないままでしたが、1980年代にジェルジ・リゲティが「ヴェーベルンやアイヴズに匹敵する大作曲家」と礼賛したことで、晩年になって忽然と名声を得るという≫(ネット記事より)数奇なめぐりあわせを生きることになった。その音の微分化、細分化のアイデアは確かにリゲティに独特のあの、あわく未分明にゆらぐ音色、響きにいきているといえるだろうか。まこと、ジョンケージを筆頭にアメリカは奇体な作曲家を生み出す国ではある。



ヘンリー・カウエル、マイブログ――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/31933630.html




Conlon Nancarrow, Study for Player Piano No.19