yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

音のゆくすえ、音を出したあまりの部分に濃密な余韻を響かす武満徹の『四季・シーズンズ』(1970)と『ムナーリ・バイ・ムナーリ』(1967)

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Tōru Takemitsu ~ Munari by Munari

              

≪結局は僕にとってかかれた音譜自体はそんなに意味がないということにつながるんです。つまり、音を出したあまりの部分――それは聴こえないわけだけれど――がやっぱり大事だということですね。そこには、どうしても音は帰ってゆくものだというイメージがあって、どこかを通ってまた帰ってゆく、あるいはいろんな人を通って帰ってくる。帰った時に、違った領域や違った音にならなければならないんじゃないかとおもうんですね。木や葉っぱなどなどの自然にはもともとそういうところがあるんでしょうね。≫(武満徹『樹の鏡、草原の鏡』)

まことに音に入る、音となるである。「心、境、倶(とも)に忘れず」という禅的境地でもある。余韻は余白として消息でありつつなにものかの動向である。音に耳そばだてるとは響きに音連れをまつ儀式でもある。≪そうなんですよ。音をつくっているとよくわかるんだけれど、音と接触するというのは絶対に放心することなんですよ。≫(武満徹『樹の鏡、草原の鏡』)こういう言葉もある。≪宇宙とは神の夢である。神は百億年のあいだ眠りつづけてきて、我々はその神の夢の世界に棲んでいるのだ。そして神の夢みることが止まないように、我々は祈祷や秘儀をもって、神をいっそうに深い眠りのなかに誘い込もうとしているのであるまいか?(ミグエル・ド・ウナムノ、稲垣足穂「僕の弥勒浄土」より)
                    写真:フランソワ・バッシェ兄弟の彫刻楽器↓
イメージ 2今回のこの武満徹のアルバム<ミニアチュール第4集・武満徹の芸術>にはA面『四季・シーズンズ』(1970)とB面『ムナーリ・バイ・ムナーリ』(1967)の打楽器作品が収められている。どちらもグラフィックスコアーと言葉によるインストラクションからなる≪相互の響きに感応して即興的に演奏≫(武田明倫)されたものである。このうち≪『四季・シーズンズ』は1970年大阪万国博覧会の鉄鋼会館「スペース・シアター」で開かれた現代音楽際に際して、同館のためにフランソワ・バッシェが制作したスティール製の楽器彫刻によって演奏される音楽として作曲された。≫この武満の動きに反対を唱えビラをまくという行動をとったのが、高橋悠治坂本龍一というのは語り草である。これを機に高橋悠治との関係がギクシャクしたということである。余り関心がなかったせいか、私はこれ以上詳しくはしらない。68年からのベトナム反戦全共闘に象徴される学生運動の猖獗(しょうけつ)極まる動きの治まり始める70年という、未だ政治の季節でもあった時代背景をを考えればありうべきことでもあっただろうか。岡本太郎のシンボルタワー「太陽の塔」の目玉に赤ヘルが出現し世間を騒がせたのもささやかなそうした政治の季節の出来事でもあった。さて、すべてメタル類の打楽器の使用が定めれれいるA面『四季・シーズンズ』は、フランソワ・バッシェの創作彫刻楽器がことのほか新鮮な音連れをもたらし山下ツトムの天才がより一層そうした印象を倍加する演奏空間を創り上げて見事である。武満徹の先に引用した言葉≪音を出したあまりの部分――それは聴こえないわけだけれど≫が音として漂い聴こえてくるようでもある。B面『ムナーリ・バイ・ムナーリ』は≪イタリアのデザイナー、ブルーノ・ムナーリが作曲者のために制作した一冊の本「Invisible Book」(1961)にもとずいて作曲された≫(武田明倫)これも『四季・シーズンズ』と同様の即興パフォーマンスであるが楽器構成は違っている。両パフォーマンスともグラフィックスコアーと言葉のインストラクション、≪奏すべき音のインストラクション≫という極くシンプルな方向しか指示されていないのに、武満の響き、和の響き、深く濃密な余韻を感じさせるから不思議なものである。アルバム画像のしたにあるのがフランソワ・バッシェの創作彫刻楽器の一例です。これは小ぶりな方で、公園や巨大建築内に設置されているものは楽器というよりモニュメント彫刻のようでもあります。この画像の楽器はなにやらマルセル・デュシャンのかの有名な大ガラス作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-23)の下部に描かれているイメージに通底するものがなくはない。



参考――(高橋悠の『技術について』の論説にかんして)
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/column/soundrec/s&r10.html