yuki-midorinomoriの日記

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よわい九十になんなんとする神長瞭月(1888~1976)のヴァイオリン演歌『元祖・神長瞭月』(1976)

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神長瞭月 ナイルの岸 "Shore of the Nile" - Ryogetsu Kaminaga

            

スカラーソング(何だ神田の神田橋…)/金色夜叉(熱海の海岸散歩する…)/オッペケペー(カエルの目玉にキュウすえて…)/籠の鳥(逢いたさ見たさに恐さを忘れ…)/コロッケの歌(ワイフもらって嬉しかったが…)/月は無情(月は無情というけれどソレ…)/松の声(ああ夢の世や夢の世や…)/間がいいソング(酒は正宗芸者は万龍…)/残月一声(風さえ寒き雪の夜に…)/一かけ節(一かけ二かけ三かけて…)/いちゃついて抓られりゃ(いちゃついて抓られりゃ痛くても結構…)/船頭小唄(おれは河原の枯れすすき…)/流浪の旅(流れ流れて落ちゆく先は…)/ストトン節(ストトンストトンと通わせて…)/ラッパ節(今なるラッパは八時半…)/戦友(ここは御国(みくに)を何百里…)/酋長の娘(私のラバさん)(私のラバさん酋長の娘…)/ダンチョネ節(三浦三崎でよドンと打つ波はよ…)/男三郎の歌(ああ世は夢か幻か…)/アイドントノウ(サンクフルサンクフルベリマッチ…)/不如帰の唄(緑も深き白楊の…)/四季の歌(春は嬉や二人揃うて花見の酒…)/野毛の山から(野毛の山からノーエ野毛の山からノーエ…)/ハイカラソング(ゴールドメガネのハイカラは…)/白菊(商船学校寮歌)(霞める空に消え残る…)/マックロケ節(箱根山昔ゃ背でこす籠で越す…)/バラの歌(小さい鉢の花ばらが…)/奈良丸くづし(ささやささささ笹の笹…)/どんどん節(籠で行くのはお軽じゃないか…)/ベニスの舟唄(春はベニスの宵の夢…)/深川くづし(丸まげに結はれる身をば持ちながら…)/乃木将軍の歌(悲しからずや幾十年…)/やっこらやのやー(丁と張らんせヤッコラヤノヤー…)/ダイナマイト節(のんきな父さん)(四千余万の同胞のためにゃ…)/東雲節(何をくよくよ川端柳…)/馬賊の歌(俺も行くから君も行け…)/新磯節(磯で名所は大洗様よ…)/日清談判(日清談判破裂して…)/朝鮮警備(ここは朝鮮北端を…)/青島節(ナッチョラン)(青島(ちんとう)の山から指差して…)/鴨緑江節(朝鮮と満州と境の鴨緑江…)/ナイルの岸(ナイルの岸に咲く百合の…)/春雨くづし(さあさ何でもよいわいな…)/お前とならば(お前とならばどこ迄も…)/デカンショ節(デカンショデカンショで半年くらす…)】以上45曲。さてどれぐらいご存知だろうか。祖父、父親たちが酩酊に酔唱していたのを記憶されている方も多いのではないだろうか。ところでこうした演歌のはじまりは一体いつごろなのだろうか。自由民権運動の壮士たちの演説・政治運動が明治二十年の保安条例により押さえ込まれ、東京を追放された壮士たちが民権思想の普及を従来の演説だけではなく、演劇や歌や落語や講談でおこなうこととなった。それがいわゆるいっぽうの新派劇である。こうしたイキサツゆえに≪演歌は、歌をうたってきかせる芸としてはじまったのではない。演説代わりの歌の文句を書いた本を売って、その文句による啓蒙運動をしようというわけだった。演歌をうたう者は、はじめは本を売るところから演歌屋といわれた。のちに演歌師となった。それを文字を変えて艶歌師というようになったのは明治末頃からである。・・・・当節の演歌・・と明治の演歌とはまったく関係がない。レコード演歌は演歌よりも、演歌とは別の流しの歌うたい、たとえば歌をうたってきかせる法界屋の系列なのである≫(加太こうじ)徐々に政治演説口調のものから、きいて面白いうたい方、うたいやすく親しみのあるメロディーへと変わってゆき、あのヴァイオリンをキコキコ弾きながら街頭で歌っている演歌師の登場となった。(悲しからずや幾十年…)日清日露の、(日清談判破裂して…)であり、今月今夜のこの月の(熱海の海岸散歩する…)(デカンショデカンショで半年くらす…)(朝鮮と満州と境の鴨緑江…)(青島(ちんとう)の山から指差して…)(今なるラッパは八時半…)ああ(ナッチョラン)(ナッチョラン)である。この2枚組みのアルバムは、バイオリンを独学で学んで演歌の伴奏楽器としてそれを初めて使用した先駆者(パイオニア)である神長瞭月(1888~1976)のものであり、よわい九十になんなんとする時の音盤である。




俺も男だ 吉田一男