yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

演奏者との幸せな音の始原への旅。『ミニアチュール第二集・武満徹の芸術』(1973)

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スタンザII:『スタンザⅡ』(1971)ハープ奏者ウルスラ・ホリガーのために作曲された。アンサンブル曲であるが共演者は別のハープ演奏を電子的に加工したテープ。テ ープには人声や水笛のような音も入っている。生ハープとミュジッ ク・コンクレートのコラボ。

           

≪神はみずからものをいうことはない。神がその意を示すときには、人に憑(よ)りついてその口をかりるのが例であった。いわゆる口寄せである。直接に神が臨むときには、「おとなふ」のである。「おとなふ」「おとづれ」は神があらわれることをいう。それは音で示される≫(白川静『漢字百話』中公新書)神はそれゆえ、そよと吹く風と音と共にやってくる。さて、武田明倫がこのアルバムの解説で言っているように≪「音」あるいは「音楽」はコミュニケーションといった実用的機能を獲得するに先立って、そもそも聴く人にとって、自己の存在の深遠なる不可思議へと下降する意識の旅の入り口である、隠された「穴」だったのではないだろうか。≫とその武満の奏でる音楽、音のことを思念している。それであればこそ人は武満の音楽を前にしたとき、その深奥を前に畏れ佇み、安穏であることを赦されない。気安く聴けるたちのものでなく聞き流す音楽ではないのである。耳そばだてる集中を要求される。≪音楽を演奏する具体的な肉体と、それが演奏される具体的な空間を除いて成立する音楽――現在の私にはそれは考えもつかないことだが――というものが、果たして真の普遍性を獲得するであろうか≫(武満徹)このように演奏の今此処の具体にこそ、音を呼びこみ、音に生きる、音となる本来の「おとなふ」「おとづれ」の機会があり、始原の永遠、永遠の屹立があるのだといっているようではないか。決してそのヴィルティオジティをのみ期しているわけではないだろう。さらなる本源、始原への返り行きということなのだろう。その意図は十二分に達せられてもいる素晴らしい作品といえるだろう。演奏者との幸せな始原への旅であり、記録である。『ミニアチュール第二集・武満徹の芸術』(1973)

『ディスタンス』(1972)オーボエ、またはオーボエと笙のための。ハインツ・ホリガーのために作曲された作品。
『ヴォイス』(1971)独奏フルート奏者のための。オーレル・ニコレのために作曲された作品。
『スタンザⅡ』(1971)ハープとテープのための。ウルスラ・ホリガーのために作曲された作品。
ユーカリプスⅠ』(1970)フルート、オーボエ、ハープと弦楽のための。
ユーカリプスⅡ』(1970)フルート、オーボエ、ハープのための。

すべからく、ゆらぎ、風気満ちる深奥よりの響き、あらゆる抑制された情感の表出また響きには、秘めた輝き、妖しく冥き美しさを聴くことだろう。


≪音は演奏表現を通して無名の人称を超えた地点へ向かう。≫(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社)。