yuki-midorinomoriの日記

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1400年の歴史の積層がヘテロホニックに起ちのぼる音の宇宙へと誘う東儀秀樹の『雅楽(天・地・空~千年の悠雅)』(2000)

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Gagaku Etenraku

             

≪残念ながら影響の元であった原産国ではすでに絶滅してしまい、雅楽はわが国だけに残っているといっても過言ではありません。≫こうしたことの意味することは多分、劇的な歴史変動にさらされなかったことを示すひとつなのかもしれない。よく言われる江戸幕末、蒙古襲来以外これといった外からの侵攻、揺さぶりもなく、ましてや大陸では常でもある文化の崩壊、危機に至らしめる他民族による支配という歴史を持たなかったことの証しでもあるのだろう。そうした歴史のしからしむるところとしてオリジナルはもはや消失し、コピーが、それもいっそう、和の、雅の美学が純化された形でこの東アジアの孤島、日本で驚きの生命を保ってきたということなのだろう。≪雅楽上代から伝わるわが国固有の音楽、及び1400年程前から順次朝鮮半島や中国などから伝来した古代アジアの大陸諸国の音楽に基づき、またはその影響を受けて平安中期に完成し、そのまま現在までほぼ原形のまま存在している音楽です。システムが整った音楽、つまりオーケストレーションやしっかりとした楽理が存在する音楽という点では現存する世界最古の音楽といわれています。≫(東儀秀樹・解説文より)≪われわれがもっている日本の音楽というイメージといえば、それは何といっても三味線だとか、琴だとか、あるいは尺八、琵琶という楽器を使う江戸時代の音楽であり、そのほうが雅楽よりも、もっとぴったりくると思います。また、雅楽はそういうものと比べると、日本人の誰もが好んでいるといったものでもないし、いつでも聞かれる日本音楽でもない。日本人の中のごく一部の人が、演奏し、鑑賞し、そして日本の社会の中ではごく限られたところだけで行なわれる儀式の音楽ですから、そういう点からしますと、雅楽は、必ずしも日本の代表的な音楽と言い切ることはできないわけです。≫(小泉文夫「日本の音楽」平凡社)このようなことから聴く機会を逸する、また遠ざけられてきたのではないだろうか。また雅楽が日本を代表する音楽と謂われ、諸外国に紹介されるにつけ何とはなしの違和感を憶えるのも、早逝に惜しまれた、今は亡き傑出した民族音楽学者、小泉文夫の先の指摘のとおりだろう。しかしこうした紹介、受け入れに西洋が肯うのは、≪雅楽は、ひとつの楽器の独奏ではなく、管弦といわれるように、管楽器だとか弦楽器、打楽器といったものが、ちょうど西洋のオーケストラと同じようなアンサンブルになっていることから、西洋音楽しかわからない人にもなじみやすいということがあると思います。しかし、何といっても雅楽が、日本の文化に深くそまった人でなくてもわかりやすい根本の理由は、結局、この雅楽が、日本で生まれた音楽ではなく、確かに日本で育ったことは育ったけれども、本来は外国の音楽であり、したがって性格は、濃厚に国際的な感覚に基づいているからです。国際的な変遷、陶冶というものを経た上でできあがった音楽、そういう意味でちょうど西洋音楽と同じように、民族や、あるいは人々の社会的環境を超越して、人類全般に及ぶ人間的表現に結びつきやすい、そういう性格をもっているからだとおもいます。≫宗教人、貴族特権階級の音楽などという視点からのみの偏頗な見方では至りえない考察といえるだろうか。≪したがって、雅楽というものが日本にしかない日本独特の、しかも日本の民衆の音楽的感覚を一番代表的に表す音楽であるということは間違いですけれども、しかし、同時にまた、日本の中にあって日本の性格、日本人的要素というのをもちながら、なおかつ、それが超民族的に人類一般の音楽の美しさに広がってゆく可能性をもった音楽という意味で、やはり、雅楽が日本の代表的な音楽であるということも、間違いではないと思います。≫(小泉文夫「日本の音楽」平凡社)何と清々しくさえある指摘であることだろう。けっして私たちを平俗のうちに慰撫するというようなたちの音楽ではない。これは確かなことだ。しかし千四百年という歴史の時間の積層する練成はやはり凄い世界だと、今あらためて思う。ところで「天から差し込む光」を表す笙(しょう)。「天と地の間を縦横無尽に駆け巡る龍」を表す龍笛(りゅうてき)。「地上にこだまする人々の声」を表すという篳篥(ひちりき)などが奏するその響きを聴いて、≪まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである。≫これは武満徹が1962年最初に雅楽宮内庁で聴いたときに綴った言葉だそうである。≪この雅楽のように特殊な形態のオーケストラは世に類例を見ない。それはかならずしも特殊な生を永らえたと謂うことに由来するばかりではない。純粋に物理的な見地において特殊であり、寧ろそれは奇異ですらある。だがそれがあの非現世的な魅惑に満ちた音響世界を創出しているのだ。凡そ高音に偏った楽器群、その極度に制限された機能、異質の音色の集合。雅楽は、西洋の調和の概念からは遠く隔たっている。だが、あの永遠や無限と謂うものを暗示する形而上的な笙の持続――それが人間(人)の呼吸と結びついていることの偉大さ――に対して楔のように打ち込まれる箏や琵琶の乾いた響き――それは笙や篳篥とは全く異なる時間圏を形成する―。そして、管楽器の、殊に篳篥の浮遊するようなメリスマ、それらの総てが醸成する異質性(ヘテロジェニー)は、私たち(人類)にとっては決して古びた問題ではない。≫(武満徹)この真率な、響きの成立ち、行くすえをつねに自らの音楽の始原においていた武満の言葉も印象的である。また、≪同一旋律を多声的、同時的に結合する異音性≫としてのヘテロフォニーを特徴とする雅楽にみるように≪音の混然としたヘテロフォニーとともに、このような音の<空間的>な時差や多様な動き(実際にも古式では、庭園などの空間的な広がりの中で奏されていた)に美しさを感じるといった独特な感性を、古代の日本人はもっていたのではあるまいか≫(秋山邦晴)こうした指摘を念頭に、この純ともいえる、そのものズバリの『雅楽(天・地・空~千年の悠雅)』を、優雅で無く悠雅を、東儀秀樹(1959)によって聴く一般化の機会を得るのも、その意義大なるものが在ると思われる。1、平調音取(ひょうじょうのねとり)2、越天楽(えてんらく)・<唐楽・管弦>3、陪爐(ばいろ)<唐楽・管弦>4、ニ星(じせい)<朗詠・平調>5、沙陀調音取(さだちようのねとり)6、蘭陵王<唐楽・舞楽>7、高麗小乱声(こまこらんじょう)8、納曽利急(なそりのきゅう)<高麗楽舞楽>。以上なにやら隠語めいてやはり特異な世界ではあるが、まったくもって、音の微妙なずれ、音源のゆれの、いわゆるヘテロホニックな妙がなんとも不可思議な音の宇宙へと誘う。貴族の音楽であったその特殊を考えても、千数百年の歴史の変遷積み重ねに、その響きの不思議の生命力、時間、空間喚起力の凄みをこのアルバム(CD)に聴くことだろう。