yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ルチアーノ・ベリオの天与の抒情の響き『ルチアーノ・ベリオの肖像』

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ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)。彼の経歴はすでに拙ブログで概略取り上げてもいるのでここでは割愛しよう。全体的な印象は、彼の音楽を抒情的で、かつ豊かな音色、響きを特徴とするということ以上に加えることはない。
これはシロウトの悲しさ以外のなにものでもない。毎度言っているように印象批評の域をでないということである。語るためでなく、音楽を聴くことを悦びとするということで、何もこのように文章つづるべく四苦八苦する必要もないのだけれど。とは言うものの聴きっ放しで済ましてしまうのも、いささかの知的怠慢と思えなくもない。
絵と同様、音楽も語りえぬ感動があるから音楽だと、その直接性、抽象性を前に、つねに言われることである。だが言葉という了解の介在がありえてこそ作者もその感動を共有できるのではないだろうか。
よしそれが食い違っていようが、そこにおいて作品となり、いちおう完結する。見る人、聴く人不在で何が成立するというのだろう。
ともかく語ることが自己対象化の行為であるとすればそこにこそ世界もまた再度起ちあらわれことともなるだろう。直感として、そして論理として。
ま、そんなことはともかく、この、ベリオ自身が撰び、指揮し、監修してのアルバム『ルチアーノ・ベリオの肖像』を聴くと、まさしく音への、響きへの柔軟な感性の天与を聴くことだろう。
無調でありつつも美しい響き、電子音の響きですら抒情を奏でる感性は、彼にとっては音楽構造に繰り込まれたそれとして本源的なものでもあるのだろう。だが、決して感性の赴くままに甘く流されることはない。
A面、1.5つの楽器と磁気テープのためのディファレンス(1958-59)、磁気テープでのあらかじめ収録された音源と同編成のライブが混合して綾なす響きのうつろいは美しい。
2.女声のためのセクエンツィア第三番(1965)発声法の開発による音楽外要素、ため息、叫び、笑いなど、日常の声の音楽感性への掬い上げ、といったところだろうか。
B面、1.オーボエのためのセクエンツィア第七番(1969)ヴィルトゥオーゾによる響きの創造開発、美しい音のパフォーマンス。どこまでも響きには美的余韻がある。やはり奏者ハインツ・ホリガーの名人芸がひかる。
2.ヴァイオリンとピアノのためのデュペッジ(1951)は最初期の作品で演奏も珍しいということである。この無調的な作品のなんと美しく響くことだろう。わたしには、ディファレンスもさることながら、この作品がもっとも印象を強くもった作品であった。清々しくさえあった。のびやかであった。
さて最後、3.女声とクラリネット、チェロ、ハープのための室内楽(1952)。シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」とも違い、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」とも違い、やはりベリオの際だつ抒情が個性である。
≪この作品はべリオのリリカルな特質とすでに個性的な語法とによって、彼の初期の傑作のひとつといえるだろう。・・・・デクラメーション(朗唱)と伝統的な歌唱法を結びつけ、それをまったく新しい表現の世界へと向けて、ひとつの独自な現代の歌曲を作り出している≫(秋山邦晴)。心地よくシンプルで美しい。