yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

嘶(いなな)く特異なサックス。エリック・ドルフィー『Eric Dolphy at The Five Spot vol.1』(1961)

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まったく久しぶりにハードバップとやらのジャズアルバムを聴いた。ジャズの薀蓄をもっている訳ではないのでこうとしかいえない。
ところで、残念ながらジャズはやはりマイナーでありつづける音楽だなと思った次第。それなりの変遷がありはしたのだろうけれど、このアルバムの時代からどれほどの革新があったのだろうか疑念なしとしない。
クラシック畑から技量、テクニックをほめられて、本人ではなくファンが脂下がる。<クラシック界の大ヴィルチュオーソ、ホロウイッツやギーゼキングも、ニューヨークのクラブにテイタムの名人芸をこっそり聴きに訪れたほどだった。>(ネット記事より)それがどうしたといいたくなる。
そんなにお墨付きが欲しいのだろうか。なまじの芸術性だのと、それがどうしたというのだろう。いいたくないけれど、といいながら言うのだけれどつまらないことだ。芸術家ぶる落語家と同じ心性だ。落語家で<あかん>のか?。芸人で<あかん>のか?
ロック、ポップス界ほどの音響的革新へのアグレッシヴさ、実験性も無く、総合芸術へのエンターテイメント性もなしえず、ひたすらにヴィルティオジティと心地よいのりだけに酔っ払う穴倉芸術。
とまあ、悪態ついても仕方がないので本題といこう。好きなだけによけい悪態つきたくなる。私には、メインストリームではほとんど唯一と言っていいほどエリック・ドルフィーEric Dolphy(1928-64)だけがジャズであった。その突拍子もないサックスサウンドに魅せられたのだ。
チャーリー・パーカーがどれほどか私はまったく知らない。まともに聴いたこともない。私にとっては伝説で十分だ。コルトレーンもお付き合いで聴きはした。当時は世評、まったくコルトレーンマイルス・デイビス二人であった。
相倉久人とかいう評論家がえらく入れあげていたのを思い出す。今どうしているのかは知らない。また植草甚一という雑学でユニークだった人物もよくジャズを語っていたのを思い出した。今またリバイバルとか聞きおよんではいるけれど。さてどうしたものだろう。
ところでこのエリック・ドルフィー。あたりまえのフレージングでなく、嘶(いなな)くような特異なサックスには驚き魅せられたものであった。セシル・テーラーのように、別に無調を意識していてのことではないだろうけれど、まったく奇異なインプロヴィゼーションであった。そこに魅力を感じ、音盤で唯一おっかけしたメインストリームジャズプレイヤーであった。(セシル・テイラーは別)そこに革新の匂いをかぎだしたからなのだろう。
今回採り上げるアルバムは、そうした清新の心意気が存分に聴けるアルバムといえるだろう。短命ゆえ残された数少ないアルバム中、やはりエリック・ドルフィーの独創果敢を十二分に聴けるのはこのアルバムだろうか。
スタジオ録音ではなくライヴという長尺のパフォーマンスはことのほか生き生きとしてすばらしい。23歳という若さでその生をとじたブッカー・リトルBooker Little(1938-1961)のトランペットも清新情熱満ちて素晴らしく、マル・ウォルドロンのシンプルなシングルトーンのブルースフィーリング溢れるピアノプレイもまた素晴らしい。
私のような弩素人が言うまでもなく解説文の言うごとく≪このアルバムは、モダンジャズ史上に輝かしい金字塔をうちたてたエリック・ドルフィーの記念すべき名演奏盤である。≫誇張ではない。まったくもって文句つけようがないそのとおりの名盤中の名盤であろう。臆面もなく、数多く聴いてのうえではないけれど。
この「音楽を聴き、終った後、音楽は宙に消えてしまい、二度とそれをつかまえることはできない」と、そのインプロヴィゼーションに命を削って1964年36歳で時代を足早に駆け抜けたエリック・ドルフィーこそが、我がヨーロッパフリージャズへのいれこみの導師だったし、現代音楽への誘い水でもあった。
1961年ニューヨーク・ファイヴスポットでの実況録音『Eric Dolphy at The Five Spot vol.1』。今から45年前である。


Eric Dolphy - Eric Dolphy At The Five Spot, Volume 1

Tracklist:
Fire Waltz
Bee Vamp
The Prophet


ところで話は変わる。悶々としてわが青春していた70年から例えば45年を差し引くと1925年という時代である。この時代は大日本帝国憲法教育勅語の時代であった。
大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の近代的憲法。別名明治憲法もしくは旧憲法とも呼ばれる。東アジアにおいて最初に制定された成文憲法であり、日本国憲法の制定に至るまで、一度も改正されなかった。大日本帝国憲法下の統治機構図この憲法により、天皇は国の元首、統治権の総覧者としての地位が定められた一方、統治権の行使は憲法の条規によるものとされた。現実には、存在している内閣についての規定がなく、国務大臣天皇への輔弼(ほひつ)に関する規定が設けられたのみであった。また、帝国議会天皇の協賛機関と位置づけられ、議会の権限は小さなものであったものの(天皇による緊急勅令、独立命令の存在など)、法律協賛権と予算議定権を持たせ立憲君主制による議会政治を実現させた。また、日本国憲法下におけるのと異なり、行政庁の処分の違法性を争う裁判(行政裁判)の管轄は、司法裁判所にはなく、行政庁の系列にある行政裁判所の管轄に属していたことに特色がある。この根拠については、伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。その他、陸海軍の統帥権天皇にあると明記されていることで、後に昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、軍の統帥者は天皇であって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示する。
■ 構成
第一章 天皇
第1条 天皇主権
第4条 統治大権
第10条 官制大権及び任官大権
第11条 統帥大権
第12条 編成大権
第13条 外交大権
第14条 戒厳大権
第二章 臣民権利義務
第19条 公務への志願の自由
第20条 兵役の義務
第22条 居住移転の自由
第31条 非常大権
第三章 帝国議会
第34条 貴族院
第四章 国務大臣及枢密顧問
第五章 司法
第六章 会計
第七章 補則
第73条 憲法改正≫(WIKIPEDIAより)



朕 惟 フニ我カ皇 祖皇 宗 國 ヲ肇 ムルコト宏 遠 ニ德 ヲ樹ツルコト深 厚 ナリ
チンオモうにワがコウソコウソウクニをハジむることコウエンにトクをタつることシンコウなり

我カ臣 民 克ク忠  ニ克ク孝 ニ億 兆  心  ヲ一 ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
ワがシンミンヨくチュウにヨくコウにオクチョウココロをイツにしてヨヨソのビをナせるは

此レ我カ國 體 ノ精 華ニシテ教  育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 ス
コれワがコクタイのセイカにしてキョウイクのエンゲンマタジツにココにソンす

爾  臣 民 父母ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦相 和シ朋 友 相 信 シ恭  儉 己 レヲ持シ
ナンジシンミンフボにコウにケイテイにユウにフウフアイワしホウユウアイシンじキョウケンオノれをジし

博 愛 衆  ニ及 ホシ學 ヲ修 メ業  ヲ習 ヒ以 テ智能 ヲ啓 發 シ德 器ヲ成  就 シ
ハクアイシュウにオヨボしガクをオサめギョウをナラいモッてチノウをケイハツしトクキをジョウジュし

進  テ公 益 ヲ廣 メ世 務ヲ開 キ常 ニ國 憲 ヲ重  シ國 法 ニ遵  ヒ
ススンでコウエキをヒロめセイムをヒラきツネにコクケンをオモンじコクホウにシタガい

一 旦 緩 急  アレハ義勇 公 ニ奉 シ以 テ天 壤  無窮  ノ皇 運 ヲ扶翼 スヘシ
イッタンカンキュウあればギユウコウにホウじモッてテンジョウムキュウのコウウンをフヨクすべし

是 ノ如 キハ獨 リ朕 カ忠  良  ノ臣 民 タルノミナラス
カクのゴトきはヒトりチンがチュウリョウのシンミンたるのみならず

又 以 テ爾  祖先 ノ遺風 ヲ顯 彰  スルニ足ラン
マタモッてナンジソセンのイフウをケンショウするにタらん

斯ノ道 ハ實 ニ我カ皇 祖皇 宗 ノ遺訓 ニシテ子孫 臣 民 ノ倶 ニ遵  守 スヘキ所
コのミチはジツにワがコウソコウソウのイクンにしてシソンシンミンのトモにジュンシュすべきトコロ

之 ヲ古今 ニ通 シテ謬  ラス之 ヲ中  外 ニ施  シテ悖 ラス
コレをココンにツウじてアヤマらずコレをチュウガイにホドコしてモトらず

朕 爾  臣 民 ト倶 ニ拳 々 服 膺 シテ咸 其 德 ヲ一 ニセンコトヲ庶 幾 フ
チンナンジシンミンとトモにケンケンフクヨウしてミナソノトクをイツにせんことをコイネガう

明治二十三年十月三十日

  御 名 御 璽
  ギョメイギョジ    ≫(NET記事より)


1970年からの45年前はこのような時代であった。上を小学生が唱和していたのだ。2006年からの45年前は1961年であり、このエリック・ドルフィーの『Eric Dolphy at The Five Spot vol.1』が収録された年である。同じ45年の何という落差だろう。今、23歳の若人の45年前と私たちの23歳の時の45年前とは、「番頭はんと丁稚どん」の時代ほどの違いがあるのだ。何という落差、価値転倒だろう。壊滅的戦争を境にし45年の実質は斯くも違うのだ。