yuki-midorinomoriの日記

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内面的精神性を秘めた音色、響の多彩と、荘重。ポーランドのカジミェシュ・セロツキ(Kazimierz Serocki、1922 - 1981)

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Kazimierz Serocki - Episodes (1958-59)

              

さてポーランドの音楽家といえば、誰しもがフレデリック・ショパン(1810-1849)を思い浮かべる。このことひとつをとってみても音楽的土壌の豊かであることを疑わないだろう。
しかしこのショパンにも人生上に大きな影を落とすことになるポーランドという国の地政学的悲哀の歴史が想起される。
このポーランドという国は≪多くの国と陸続きであり、平地が多く、他国の勢力の侵入が容易な地形であるため、ポーランドは幾度も戦争に巻き込まれ、国境線が絶えず変化した。 中世にはヤギェウォ朝がポーランドを支配し、一時期はリトアニアと連合した(リトアニア-ポーランド王国)。しかしその後、周辺帝国の成長とともにロシア、プロシアオーストリアの3国によって国土を3度にわたり分割(ポーランド分割)され、タデウシュ・コシチュシュコの蜂起が鎮圧されると、ポーランド国家は消滅した。(国家消滅!-引用者)
第一次世界大戦終結後、ヴェルサイユ条約民族自決の原則により、ドイツ帝国ソヴィエト連邦から土地が割譲されて国家が回復した。しかし、ナチス・ドイツソヴィエト連邦の密約(独ソ不可侵条約秘密条項)によって、国土は双方に分割されることになり、1939年、グダニスク近郊のヴェステルプラッツェ侵攻に始まるドイツ軍のポーランド侵攻と、ソ連軍の侵略により再び消滅した。(再びの国家消滅!-引用者)
戦中は国内外で様々な反独闘争を展開。第二次世界大戦後に復活したが、現在の国土はヤルタ会談密約に基づいて設置されたもので、戦前と比べて大きく西に移動した。国土の西側半分近くが旧ドイツ・ワイマール共和国から割譲したものである。逆に東側の大部分はソヴィエト連邦が併合した。
終戦後は、ソヴィエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソヴィエト連邦と東ヨーロッパの共産圏で、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。社会主義国となって東西冷戦に巻き込まれた。1952年に人民共和国憲法を制定。1956年、1970年と2度暴動が発生し、1980年代後半から民主化に取り組み社会主義政権は解消された。≫(WIKIPEDIA
こうした歴史経験がなんの美学的醸成にも与しないとはいい切れまい。今回取り上げるカジミェシュ・セロツキ(Kazimierz Serocki、1922 - 1981)は、ポーランドの現代音楽の作曲家であり、それだけではなく、現代音楽の発表の場としても国際的貢献をなした音楽祭「ワルシャワの秋」の有力なオーガナイザーの一人であった。またヨーロッパの実験的動向を当時社会主義体制下にあった自国を含め周辺国へも紹介普及することに努めた先導者であった。
≪ラザール・レヴィにピアノを、ナディア・ブーランジェに作曲を学んだ。ヤン・クレンツ、タデウシュ・バイルトと共にグループ49を結成し、ポーランドの現代音楽の黎明期を代表する人物である。音源が残っていないが、ピアニストとしても卓越した存在であったと伝えられる。≫(WIKIPEDIA
この59才で世を去ることとなる活動期間の短さが、のちポーランドを代表するルトスラウスキーやペンデレツキほどの知名を得るにいたらなかった要因でもあったのだろう。ルトスラウスキーは1913年生まれであり、ペンデレツキにいたっては1933年生まれである。
しかし戦後、ポーランド楽派と言われるほどに現代音楽隆盛の礎となったのは、このセロツキをメンバーとするグループ49の存在であった。
最も高く国際的世評得ることとなったルトスラウスキーはセリーからジョンケージの不確定性のコンセプトへと先鋭を極めた。もちろん古典的な作風のなかで練り上げられた確かさを生かしさえしたからこそのそれら秀作群は見事なものである。
拙ブログで記事にしたけれども、日本のノーベル賞とも言われている京都賞(京セラ稲盛財団)、その芸術部門で受賞している。1985年オリヴィエ・メシアン、1989年ジョン・ケージ、1993年ヴィトルト・ルトスワフスキ、1997年イアニス・クセナキス、2001年ジェルジ・リゲティといった作曲家の面々である。その革新の真正においてルトスラウスキーは授与されたのだろう。
だがこのカジミェシュ・セロツキは、ヨーロッパ自由主義圏新潮流の紹介普及の貢献にとどまるだけでは断じてない。今回取り上げるドイツ・ヴェルゴ盤の『K.Serocki』作品集に収められた作品。それぞれ見事なまでの内面的精神性を秘めた音色響きには、個性以上の楽の歴史、寡黙と抑制された激情の、胸うつゆたかな奥深い生の詩と祈りを聴くことだろう。
ブーレーズの「プリ・スロン・プリ」を思わす豊かできらめく音色。一転厳しささえ秘めた美しく豊かな弦の響きの荘重、精神においてタイトで音色感に優れ、落ち着いた音の動きと品格をもつ「協奏的音楽」(1958)。おしなべてセンシブルな響きへの志向性と音色の多彩を特徴とする。それにしても弦の響きのなんと厳しく荘重に響くことか。これはポーランドという音楽土壌のなせるところなのだろうか。そうだ、厳しさと荘重、奥深さと一応括っておこう。すばらしい作品4つである。
いつもながら蒐集はしていても一体全体何を聴いていたのだろう。この精神の緊張はたまらなくいい。ポーランドである。時間もなくなってきた、後日の追記としよう。それほどにいい作品集だ。
「セグメンティ」(1960-61)、「エピソード」(1960)、「交響的壁画」(1963)。すべてグループ49のメンバーであったヤン・クレンツ指揮、ポーランド放送交響楽団によるものである。ところで、≪彼の功績を称える為カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクールが開催され・・・・・。授賞式には、必ずセロツキの作品が併演され≫ているとのことである。ポーランド現代音楽史でのセロツキの位置をしめすものだろうか。





Kazimierz Serocki - Segmenti (1960-61)