yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

<騒音>それ自体へのダダ的超越のアヴァンギャルド。ジョン・ケージ(1912)とレジャリン・ヒラー(1924)の『HPSCHD』(1967-69)

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John Cage: HPSCHD (1969) Prima parte

            

私たちはここに何を聴きだすべきなのだろう。三台のハープシコード(Antoinette Vischer,Neely Bruce,David Tudor)パフォーマンスとプログランミングされてのうえといいながら、ランダムに鳴らされるコンピュータによって生成された51もの音響テープとの凄まじいまでの騒雑音に満ちた音響空間。最初から最後まで徹頭徹尾<美>を排除したような騒音で空間を埋め尽くすこうした試みをどう了解したらよいのだろう。例えていえば繁華街のゲームセンターの、設置された数多くの機器が好き勝手にその種々の効果音楽を、耳つんざくばかりに鳴らし続けているさまをおもいうかべてもらえれば相当である。ところどころでハープシコードの古典音楽演奏する本来の楽音がかすかに浮かんでは消えるが如くに聴こえるのみ。ほとんど時をおかず<美>を排除した騒雑音の累乗である。まことに<美>なる絶対価値の崩落を目論んでいるかのようなパフォーマンスである。時間も、空間もすべて価値をはがされて、空虚というより廃墟に立たされ孤絶を強いられた荒涼を聴く思いである。音を鳴らさぬ4分33秒アヴァンギャルドイメージ 2音という音を無価値化し、騒音、雑音と化して埋め尽くす相対地獄の荒涼を突きつけるアヴァンギャルドジョン・ケージJohn Cage(1912)とレジャリン・ヒラーLejaren Hiller(1924)のダダはマルセル・デュシャンの<泉>と相同だといいたくもなる。拙ブログで取り上げたジョン・ケージとデヴィッド・チュードアによる「ヴァリエーションⅣ」のパフォーマンス同様このケージとレジャリン・ヒラー二人による共作『HPSCHD・for Harpsichords & Computer-Generated Sounds Tapes』(1967-69)もダダぶりにおいて際立っている。とりわけこの『HPSCHD』は凄まじい。聞かすノイズミュージックをも超越したそれ自体であり、それ自身であり、そしてただ騒音である。さてもう一曲B面はベン・ジョンストンBen Johnston(1926)の『弦楽四重奏第二番』(1926)。A面で打ちのめされ招来した精神の荒涼を、この古典的な作品の清水で幾分かでも潤わそうという心算なのだろうか。最初の無調的出だしのいい緊張が持続展開しない。工夫された響きがあるにせよ、ちょっぴり惜しいことだ。


雑音に関するヒポテーゼの試み』松岡正剛<遊>1008(1979)より抜粋(再録)

★音楽は生命現象の進化軸に沿っている。古典音楽はいまだ円錐対称的であったが、現代音楽はついに左右対称性をも崩してしまった。いま、デレク・ベイリーのギターは「完全なる無秩序」に向かう。エントロピーは増大する以外にない。

●破壊から―――紙を破る、ガラスを割る、モノを燃やす……破壊音はいつも雑音だ。しかも不可逆であることの潔さから響きが美しい。なぜか。

イメージ 3★ミヒャエル・バクーニンは「破壊しか創造の端緒になりえない」といった。ルネ・トムのカタストロフィ理論は、<破壊のトポロジー>が発見した美学でもあった。ミルクコーヒーはミルクとコーヒーには戻らない。ボルツマンとブリッジマンは自殺した。いまだ音楽家エントロピーに対抗していない。それで理由は充分だろう。

●ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。


こうした斬新な考察をも無化するような<騒音>それ自体へのダダ的超越である。




            写真:『HPSCHD』スコアー →