yuki-midorinomoriの日記

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緊張たたえた自立美のセリー音楽の古典。シュトックハウゼン『Kreuzspiel』(1951)、『Kontra-Punkte』(1952-53)『Zeitmasz』(1955-56)、『Adieu』。

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Stockhausen: "Kontra-Punkte" 1/2

            

このアルバム(1974)に収められた作品はカールハインツ・シュトックハウゼンKarlheinz Stockhausen(1928-)の初期の作品であるけれども、およそ20年を経てのロンドンシンフォニエッタとの演奏ツアーでの自身が指揮しての、その過程でのスタジオ録音ということである。『Kreuzspiel』(1951)、『Kontra-Punkte』(1952-53)『Zeitmasz』(1955-56)、『Adieu』(1966)の4曲。『Adieu』以外すべて50年代の初期セリー作品として重要な位置を占める秀作品といえるだろうか。アルバム裏面には、おのおのの作品の楽器配列図が記されている。事細かな注釈がコメントされているわけでもないので、それら配列がどれほど作品解釈に係わっているのか知る由もない。したがって、こうでなくてはならないといったような了解のないままの鑑賞でしかないとはいえ、やはりメリハリのある音使いの引き締まった作品との印象は、なんてったてシュトックハウゼンといいたくなるほどである。全面的セリーという論理抽象での音楽世界構築と括られるにもかかわらず、シュトックハウゼンの個性なのか。いやそうした謂いが、いささかの牽強であるとしても、作品として自立した美を備えていることは否定しようがない。確かに時代を象徴する音楽美の世界であることは確かなことである。そうしたことはこの時代のセリー以外のオーソドキシーのつまらなさを指摘すれば足りる。どのような音楽史的達成があったというのだろうか。緊張をたたえた自立美の音楽であったことは確かであり、ここからしクセナキスの音響革新も、リゲティーらの音響創造もありえなっかただろう。電子音楽の豊穣さえこうした抽象論理の徹底的な楽的分析解体への革新総合があってこそではなかっただろうか。おしなべて音響革新創造、電子音によるそれらは、彼らセリーのすぐれた作曲家たちにおいて果敢であったことを忘れるべきではないだろう。つまらぬ血の通わぬ作品などではけっしてない。このアルバムのカールハインツ・シュトックハウゼンの天才を聴けば肯けることだろう。




Stockhausen: "Zeitmasze" 1/2