yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

佐藤聡明の静謐に浮かび上がる真正。尺八と琴の邦楽作品『日……月』(1993)

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ブログを始めていなかったら新譜などたぶん買わなかっただろう。それほどにひさしぶりであった。作者には申し訳ないことだけれど、在庫処分だったのか半額であったせいもある。フリージャズ、現代音楽音盤の蒐集を四半世紀前に放棄したものの十数年ほど前、突然ロック音楽に魅かれていくらかの新譜を購入して以来である。今回採り上げる佐藤聡明はこのブログでもいっとう最初のころに『太陽賛歌』を採り上げている。私にとっては近藤譲と、この佐藤聡明は同世代の若手作曲家と言うこともあり、注目し好きな作曲家であった。最もそのころには今日と違ってほとんどといっていいほど音盤の少ない時代であり、若手でもあった。今再びこうして佐藤聡明の作品、といっても1993年という十数年前の音盤、尺八と琴というシンプルな構成の邦楽作品『日……月』(1993)を手に聴く機会を得、間違いなく静謐に浮かび上がる真正なその姿に感動をおぼえた。気を呼び込むように静かに静かにあるかなきかの一音の持続する最弱奏から入っていく。乾坤、気をまちて相即相入にはじまる風情である。繰り返し繰り返ししじまに糸を引くように静謐の世界を浮かび上がらせる。気はいまだ満ちず、音はありどころを求めまことに静やかに奏される。まさに、さやけき月あかりに幽そけく森羅万象その姿はしんしんとして在る。≪僕は、子供のころ山登りをしてとても素晴らしい体験をしたことがあるのです。1500メートルほどの山でしたが、頂上に着いたときまさに太陽が雲海に没しようとしていた。太陽はほとんど光を感じさせない巨大な真紅の珠となっていたのです。ふと後ろを、東のほうを振り返ると、月がいま昇ったばかりでした。三日月なのですがまだ光を湛えず、いわば銀紙を切り取ったような月が灰色の雲海の上に昇っていたのです。天は濃紺の蒼穹となり、恐ろしいほどの静寂の中で太陽と月はあたかも照応するごとく存在したのです。『皎月』と『燦陽』を作曲した時、このような日月が照応しあうような光景はつねにイメージとしてありました。それから『皎月』を書いた時に、中国の詩人が、ある晩に庭を見たら真っ白な霜が降りているように見えたので、何かと思ったら実は月光であったという詩を、やはり子供のころに読んだことがあります。輝砂を置いたように、あるいは霜を置いたように、山河が月の皎々とした白い光で覆われている、そのように心を静かにもの狂いさせるような雰囲気に、僕はひどく憑かれます。・・・その静謐さと真澄さのようなイメージ・・・≫(解説、グラフィックデザイナー・杉浦康平との対談より)まさに『ひんがしの のにかぎろいのたつみえて かえりみすれば つきかたぶきぬ』万葉集の傑出の歌人の一人、柿本人麻呂の歌にある光景でもあり、余情でもあるだろう。≪「音楽をする」という行為は、東洋における「行」というものに結びつかなければならない、と僕は思っています。音楽は「魂の形」なのです。西洋音楽も、いかなる音楽も「魂の形」をしている。しかし東洋における「行」といった考え、あるいは神々との交渉、宇宙と人間の魂の交渉ということを考えると、西洋音楽の枠組みでは捉えられない、随分違うものになるだろうという気がするんです。音楽が「魂の形」をしているということからすれば、音楽家は自分の魂を、より深く、より鋭く、より広く、掘り下げていくことが必要です。深く深く掘り下げていくとどこかに大きな穴が開いているのを発見するだろうと思う。多分それは、この三千世界に貫通する風穴だと僕は思うんだけれど。それを作曲家であり、音楽を作っている上からも、いつかは探り当てたいと思うのです。≫確かに、人はこの二曲『皎月(こうげつ)』と『燦陽(さんよう)』の感動にそのオトズレを聴く思いのすることだろう。その静謐の真正にタマシイを揺さぶられることだろう。このブログでも、いままでいくらかの尺八作品を採り上げてきたけれども、その響き、佐藤聡明の作品には異質な感動がある。あくまでも静謐への気の充溢とでも言えるだろうか。≪僕が音楽を始めたころに最も興味を引かれた世界はそれ(荒事と狂気の世界―引用者注)なんですね。「リタニア」という曲などは、ピアノを急速なトレモロ奏法で弾いていく。そこには非常に荒々しい狂気にあふれた音響の世界が拡がっていきます。そのような荒事と狂気の世界の奥にあるのはなんだろうかと、いつの頃からか考え始めたのです。先ほどの道教の祭礼の話でも、一番奥に控えて、そのエネルギーの源になっている所があるのです。それは何かと…そしてそれが斎場(ゆにわ)であることが解りました。最も清浄で静寂な世界なんですね。そこから光が放射してきて、力を与えるのです。でもね、そこは何もない世界なんですよ、完全に。空(うつ)なんです。その清浄無垢な場所に神が降りてきて、それから人々に力を分け与えるのですね。そこから多くの試行錯誤を重ねるようになったのですが、今でも最も魅力を感じるのはその混沌とした狂気の世界ですね。≫混沌と狂気の世界に放心する<空・うつ>の現前こそ真正として静謐である。ところでまた、アルベルト・ジャコメッティは「彫刻は空虚の上にたたずむ」といったのではなかっただろうか。曲目は尺八と十三絃の『皎月(こうげつ)』と、二尺四寸の尺八と十七絃の『燦陽(さんよう)』(1993)。この二曲は≪いわば日月照応する陰陽の関係にある。『皎月』は浄暗の清明さを『燦陽』は東雲(しののめ)の真澄に澄んだ大気の冷瓏さを、その響きに求めたいと思った≫。最後の『風の曲』(1979)は尺八独奏曲で≪わたくしにとって最初の尺八の曲。法器とも道具とも呼びうる尺八という楽器の、透徹した謎にはじめて触れた曲である。その息音(そくおん)のはてに、音が未だ発せざる以前、乾坤未だ開かざる以前の大いなる沈黙の大海(おおわだ)がはてしなく広がるのを夢想したのだった。≫とおのおのコメントされている。聴くべしである。



佐藤聡明『太陽賛歌』、マイブログ――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/16928006.html



奈良県大宇陀町『ひんがしの のにかぎろいのたつみえて……』
http://www11.plala.or.jp/haikutabinitijou/sub35.htm