yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

大いなる<気>に、<チャンス>に美を表現をあずけたジョン・ケージピアノ作品『Seven Haiku』(1952)ほか

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やはりもろでなく、ひねってあるところ、昇華されてあるところが凡庸でないことの証なのだろうか。…風であるけれども、…風を超えている、意図せざる…風である。そこにジョン・ケージの思想があるのだろう。おおむね凡庸は…風のみである。ようするにもろに…風として、その新奇さを売りとするだけである。ひとだれしも、…風の新奇さがもろ前面に出されたリズムなり、響きなりがだされると鼻白む、尻こそばゆい感じをもつことだろう。こんなことなら民族(民俗)音楽をそれ自体として純粋に聴くほうがまだましだと思うだろうし、そのほうが感動もする。ケージのプリペアドピアノ作品はその響きをガムラン音楽によく比せられる。確かにそうだ。しかしケージは結果として響きがガムラン音楽風であっても、そのようなことを意図してのことでなく、意図せざるコントロールできない音の変化を愉しんだのではないのだろうか。創ることを超えて迎え入れたのだ。大いなるものへとあずけたのだろう。だからこそといっていいのだろうか、変に押し付けがましい鬱陶しさがその響きにはないのだろう。創造を放棄したといえばそうなのかもしれない。もう聞き飽きたのだ。押し付けがましい美の主張に、美の過剰に疲れたのだ。「タケミツは美にとらわれすぎているのでは」といったそうである。音楽が何かを表現するとして、さてこの無尽の音楽の累乗は何を意味するのか?何かを伝え表現するという音楽の一般規定が正しければこれほどの作品の多数を必要とするのか?こうしたあたりまえはおかしいのではないか?こうした素朴な疑念から、表現という意図を放棄し、大いなる<気>に<チャンス>に美を、表現をあずけたところにケージの音楽実践は画期とした。そこには傑作とか秀作とかの世評は意味を持つはずもない。実践であり、愉しむことである。A面には『A Room(for piano)』(1943)『She is Asleep(Duet-for voice & prepared Piano)』(1943)『She is Asleep(Quartet―For twelve tom-tom)』(1943)『A Room(for prepared piano)』(1943)。B面には『Totem Ancestor』(1943)『Two Pastorales #1 #2』(1951)『And the Earth Shall Bear Again』(1942)それと、易によるチャンスオペレーションの手法を使って作曲された『Seven Haiku』(1952)が収録されている。ほとんどが十秒ばかりの超みじかい作品である。おのおの11,14,21,18,14,12,15秒という驚くほど短い作品である。ケージは俳句に何を感じ取ったのだろうか。さてところで俳句について対談した記事を最後にこの項終えることとしよう。



ケージ――詩を存在せしめるためには詩人は姿を消すべきです。そうすることによって始めて読者はその詩の本来に接することが出来る。詩人は足跡を残さない。中国の話で、冬の動物の話があるでしょう。動物が夜になって木に登り眠っているうちに雪が降って、動物がどこにいるかわからなくなる。フッフッフッ、そこがいいんですよ。

松岡正剛――はい、はい。荘子にもそんな話があります。昔の日本の俳句も一句を詠んで、そのあとに音のしじまを聴くんです。五、七、五を詠み終わったあとでね。そうすると新しいものがやってくる。消えたのちにやってくる。

ケージ――美しい!

松岡正剛――だから詠んでいるときよりも、詠みおわったあとの方が大事になる。

                  松岡正剛『間と世界劇場』(春秋社)より




ケージ(檻)にふれケージを見直す(ネット参考記事)
http://www.web-rain.com/music/voice/back/cc2.html