yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

<生>の単調に堪える静謐に、永遠の美を聴くアルボ・ペルト(1935-)の『アルボス<樹>』(1986-7)

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Arvo Part - De Profundis

               

               遠い昔、ひとはみな、
               
               石ころや土くれだったわけではない

               ひとはわずかに輝いた、そのほのかな光で、

               みずからの誕生をかいまみた

               人は頭上の天をみあげて、知った、

               そこから自分がやってきたことを…


               こうして ひとは故郷にあこがれた

               騒がしいひとや敵対するひとと共にいるのがいやになって



うえの詩句は17世紀のイギリスの詩人ヘンリー・ヴォーンのものだそうである(初期近代英国形而上派詩人の一人、ウェールズ神秘主義者、光の詩人―引用者注)。ライナーノーツはありがたく読むべきである。少なくとも邦語に訳されてあればなおさらである。いい詩にめぐり合えたことに感謝である。人はどこからでも学ぶ機会を与えられている。さて今回のエストニアの作曲家アルボ・ペルトArvo Part(1935-)のアルバム『アルボス<樹>』(1986-7)についている解説書を読んでいて、たぶん購入した10年程前には目にしはしたものの留まらなかったのだろう。まずいっとう最初見開き1頁目に芭蕉の句が載せられている。「鐘消えて 花の香りは撞く 夕べかな」私には、初めて聞く芭蕉の句である。その下に静謐な幻想的詩的イメージの映像で魅きつける天才映画作家アンドレイ・タルコフスキーAndrej Tarkowskij(1932-1986)を偲んでとあるではないか。わたしは『ノスタルジア』にはしんそこ惚れたものであった。鮮烈であった。その幽冥に深く沈む静謐にも恐れ入った。なるほど、アルボ・ペルトの音楽のありどころが垣間見える心地のする見開き1頁の簡素な字句の提示である。このアルバムの三人による解説文の数々に勉強させてもらった。以下その字句引用である。

≪人間のもつ本源的な宗教性に支えられたペルトの音楽は、こうして、際限のない瞬間の継起となるのである。≫(白石美雪)

≪「人間はときには心をきめてすっかり目を閉じるのでなければ、見るに値するものをついに眼にすることは出来ないだろう。」ルネ・シャール

≪「芸術作品にはそれをつくるひとがいる。しかもそれはひとたび出来上がってしまうと、決定的に無名性をおびる。それは神の生んだ芸術という意味で無名のものとなるからだ。」(シモーヌ・ヴェイユ)≫

≪自己顕示を拒否するものであり、自己滅却にいたる自己主張の放棄を意味する。貧しさへの隠遁。・・・乏しさの音楽≫

≪革命ではなく、謙譲の精神、これこそは人間のいちばん深い力である。
・・・・
反抗するもの、革命を目指す者たちは「じっとしていることができず、動きまわらずにはいられず、敵とみなす人々を迫害し、その結果彼らは少しでも敵だと思ったものすべてを相手にせざるをえなくなる。」≫(アルボ・ペルト)

まことしやかな訳しりの隠忍自重でもない、アンチでもない、そうした地平突き抜けたつよい謙譲の精神であろう。

このように、このアルボ・ペルトの音楽に、ひとは喧騒と音の過剰の現代に、祈りと静謐の中世教会音楽の再来かと見まがうほどのシンプルな、みごとな響きを聴くことだろう。
<単調さに耐えうる・・・それは永遠の反映、すなわち美なのである。>わたしたちの生は単調な繰り返しのうちにその真実がある。まさしくそうだ。だからこそアルボ・ペルトの信じがたいほどの宗教性に満ちたシンプルな音楽に魅せられ聴き入るのだろう。収録曲は、1.『アルボス<樹>』、2.『私達はバビロンの河のほとりに座し、涙した』、3.『パリ・インテルヴァロ(断続する平行)』、4.『デ・プロフィンデス(深遠より)』、5.『何年もまえのことだった』、6.『スンマ』、7.『アルボス<樹>』、8.『スターバト・マーテル』以上の8曲。いずれもいいが、やはり長尺の『スターバト・マーテル』はすばらしい。最後にアンドレイ・タルコフスキーを論じた松岡正剛の下記書評記事からの引用でもって締め括ろう。

≪空しさとは何か。古代和語では「実なし」であり、「身なし」。ヨーロッパでは「ヴァニタス」である。それをタルコフスキーは知り抜いていた。自分自身を忘れることによってのみ獲得できるような何か。それがノスタルジアである。タルコフスキーは、そこに犠牲と償い、混沌と虚無がともなうことを知っていた。・・・タルコフスキーがこんな芭蕉の句を引いたことがある。「雪ちるや穂屋も薄の刈り残し」。ああ、やっぱり。≫


アンドレイ・タルコフスキーは「雪ちるや穂屋も薄の刈り残し」(芭蕉)の侘び寂に通底していたのだ。もちろんアルボ・ペルトもそうであろう。