yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

空虚のランダムネスに透き通った放心の美を垣間見せるエヴァン・パーカーとデレク・ベイリーほか『The Music Improvisation Company』(1970)

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The Music Improvisation Company 1968 - 1971: Pointing / Bedrest Jamie Muir (percussion),Hugh Davies (live electronics & organ),Evan Parker (soprano sax and amplified auto-harp),Derek Bailey (guitar)

               

ドイツECMという商業ベースのレーベルに、このようなフリーインプロヴィゼーション(ジャズ)パフォーマンスがアルバムとして登場するのも珍しいことだけれど、ソプラノサックスのエヴァン・パーカーEvan Parker、それに稀代のノンイディオムフリーパフォーマーデレク・ベイリーDerek BaileyのエレクトリックギターのインタープレイがECMで聴けるというのも驚きである。要するに誰が買って、斯く混沌を聴くのだろうという感想である。イギリスの先鋭的な自主レーベルINCUSなどならいざ知らずである。それほどに行き詰る!ではなく、息詰まる鋼鉄の緊迫、内迫に旋転する空・虚の充溢すさまじくエヴァン・パーカーデレク・ベイリー二人の鬼気迫るコラボレーションは惰眠する意味地平の安息を食い破る。それは意味づけ拒む空虚のランダムネスに透き通った放心の美を垣間見せる。無根拠を根拠とせざるを得ない価値相対の無窮、その解体的白々としたノンイディオムフリーパフォーマンスに言葉は呑みくだされ口つむぐほかなく私たちは屹立する。無根拠な、無に充溢する空・虚へとなだれ込むランダムネスに音連れるものは何か。このゆらぐ無秩序として抛りおかれたパフォーマンス『The Music Improvisation Company』(1970)には、昨日取り上げたシュトックハウゼンの『MikrophonieⅠ,Ⅱ』の演奏メンバーに名を連ねていたイギリスのヒュー・デイヴイスHugh Daviesのらいぶ・えれくとろにくすも加わっており、またプログレッシヴロックバンド、キングクリムゾンに打楽器奏者として参加することとなるJamie Muirも参加している。シュトックハウゼンのライヴエレクトリック音楽を共にしていた人物ヒュー・デイヴイスがエヴァン・パーカーデレク・ベイリーというフリージャズインプロヴィゼイションの稀代とバトルしているのもこのアルバムの興味募るところでもあり、またその先鋭に聴きほれるところでもある。



雑音に関するヒポテーゼの試み』松岡正剛<遊>1008(1979)より抜粋(再録)

★音楽は生命現象の進化軸に沿っている。古典音楽はいまだ円錐対称的であったが、現代音楽はついに左右対称性をも崩してしまった。いま、デレク・ベイリーのギターは「完全なる無秩序」に向かう。エントロピーは増大する以外にない。

●破壊から―――紙を破る、ガラスを割る、モノを燃やす……破壊音はいつも雑音だ。しかも不可逆であることの潔さから響きが美しい。なぜか。

★ミヒャエル・バクーニンは「破壊しか創造の端緒になりえない」といった。ルネ・トムのカタストロフィ理論は、<破壊のトポロジー>が発見した美学でもあった。ミルクコーヒーはミルクとコーヒーには戻らない。ボルツマンとブリッジマンは自殺した。いまだ音楽家エントロピーに対抗していない。それで理由は充分だろう。

●ラジオから―――ザーとたゅたうラジオ・ノイズに長いこと聞き入っていると、いつしか自分もノイズと一体になってしまう。さらに長いことノイズのただ中に身をさらしていると、ノイズ総体がことばを放ち始める。なつかしい天上音楽のようなこともある。ノイズが一次元あがって「このまま音」から「そのまま音」へ変わるのか。