yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

初々しく余情とみずみずしさに、豊かな精神性を感じさせる『日本の電子音楽』

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Toshirō Mayuzumi (1929-1997) - Campanology: for multi-piano

             

初々しく新鮮というのが正直な感想である。『日本の電子音楽』の、初期の名作を集めたアルバムといえる。のち国際的に大いに活躍する若き優れた作曲家たちが、電子のときはなつ初めて耳にする音色やリズムに耳そばだて、その初めての出会いの音への感動、ひたむきさが感ぜられ好感するアルバムといえるだろうか。
このアルバムに聴くような比較的シンプルな電子処理音が、過去の創成期へのノスタルジーめいたものもあってか、今となってはこれが却って心地よく、みずみずしく響いて聴こえるのだ。これは初めて事に対処する真率さということでもあるのだろうか。音連れるものへのひたすらな想い。
≪神は見えません。見えるとしたら、それはヴィジョンの中です。神はきっと光とか信号とか情報のようなものです。≫(松岡正剛『花鳥風月の科学』(淡交社)。そのように今日、電子は不思議の音連れである。その初めて出会うアーティフィッシャルな音は神的でさえある。
このアルバム収録作品などを、同時期に創られた諸外国の電子音楽作品と比べると、私たち日本人の感性にフィットするのかして音の余韻へのつよいこだわりが、すべての作品に共通して聴こえてくるのも興味深いことだ。音楽の構造・論理より音色・響きへの注視、関心ということなのだろうか。
こうしたことを思うと、日本人の電子音楽のほうが艶やかで余韻、余情といった精神性の深さに思い至ることだろう。シンプルさに、強く精神性を込めた電子音楽の良質をここで聴くことになるだろう。
1955年に電子音楽スタジオがNHKにつくられ、その年日本で初めての電子音楽黛敏郎によって「習作Ⅰ」として制作、放送された。その翌年1956年に諸井誠と黛敏郎の合作というかたちで『「7」のヴァリエーション』が作曲された。これなど先の評言そのものである。「7」という数字をめぐってきわめて論理的に設計制作されているにもかかわらず、電子音のシンプルさが、いっそう豊かな精神性、みずみずしさを感じさせる。電子音との出会いへの真率、音色への鋭い感性の賜物ということなのだろう。
そして2番目の作品、ひじょうにナイーブな具体音の電子処理でのちの映画音楽の名作「怪談」などに聴くことともなるさきがけ、稀と云ってもいいイマジナリーで日本的余情と精神性に満ちた武満徹の『空・馬そして死』(1958)。これはきびしい哀しみ湛えた抒情といわれる傑作「弦楽のためのレクイエム」(1957)の翌年の作でもある。ミュージックコンクレートとしてはきわめて初期の、世界に伍す作品でもある。
この収録2作品以外は総て60年代中頃の作品だ。音そのものに自然の始原、時間と空間を感じさせる電子音のホワイトノイズ作品。湯浅譲二『プロジェクション・エセンプラスティック』(1964)で、これはのち彼のこだわりとなるホワイトノイズによる作品シリーズへと豊饒化してゆく。
さて黛敏郎のマルチピアノのための『カンパノロジー』(1967)にしろ一柳慧(とし)の琵琶・琴・ヴァイオリン・ベース・ピアノのための『シチュエーション』(1966)。そして石井真木の室内アンサンブル・ヴァイオリン・テープのための『波紋』(1965)にしろ何れもイマジネーション満ち溢れ、音響、音色への余韻醸す見事さは感嘆のほかなく、まことによく出来た作品で、この世代のわが日本の作曲家の優秀さをいかんなく発揮、見せ付けていると言い募りたいほどである。
解説に印刷されているこの作曲家たちのポートレートの、とびっきり若々しい姿には、懐かしくも失われた時の流れにいささかのセンチメントを誘うものであった。













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