鋭さと繊細さ、潤いを付加する精神性、その深みを聴く『日本の電子音楽’69』
今回はきのうにつづき、『日本の電子音楽’69』とタイトルされ日本の電子音楽を4曲集めて出されたもの。当時としてはきわめてリアルタイムに出されたもののようだ。黛敏郎の電子音響と声による『まんだら』(1969)、石井真木のピアノ、オーケストラ、電子音響のための『饗応』(1968)、諸井誠の電子音、和楽器群のための『小懺悔』(1968)、そして柴田南雄の電子音のための『インプロヴィゼーション』(1968)の4曲で、すべてこのアルバムが出された直近に制作された作品である。いつもの繰り返し、念仏お題目のようではあるけれど、この68年,69年という時代はほんとうに特異点である。ストレートに電子音のノイズの爽快に欣喜するのはたぶん最終曲の、柴田南雄の『インプロヴィゼーション』ではないだろうか。≪音色や音量の連続変化≫の多様な操作ゆえに、聴覚的にも粒子の超速飛翔を思わす電子音の全方位空間移動する乱舞が心地よい。卑俗なイメージで言えば宇宙空間を彗星が超高速で通過してゆくSF効果音を思えばいいだろうか。そうした彼方より来たりて何処へとでも言ったようなドップラー的音響の世界である。無から無への刹那的有を思わせる。タイトルどうり具体音をなんらの素材としても使っていない、純電子音だけでのまじりっけのないストレートで純な作品である。さて、何をしてもやはり興味惹かせるなにかがあるのは黛敏郎である。この種のもの数多く聞いているわけでもないので気がひけるけれども、聴いた限りでは前回も言ったように、日本の電子音楽の水準は相当なものであると断じていいのではと思っている。音色、響きへの耳そばだてる感性に、鋭さと繊細さ、潤いを付加する精神性、その深みは優れて誇りうるものだと私はつくづく思う。イタリアのベリオやノーノ、マデルナらのセリー無調作品が極めて美しく艶やかに歌うような感性で共通しているのように、日本の電子音楽にも余韻、余情に優れて共通のものがあるのかもしれない。石井真木の『饗応』は前もって電子処理されたテープ音とライヴで電子処理されて会場に流される音との饗応である。アコースティックな音と、電子変調処理された音響が違和なくタイトでセンシティブ、そしてダイナミックに響く対比的世界をまとめあげている。つぎなる諸井誠の『小懺悔』には山伏が吹くほら貝の響きから入っていくのがはや驚かすに足る。ほら貝、尺八、太棹の和楽器の具体音が電子的に加工処理され、電子純音などと組み合わされ、おのおのが各声部にアナロジーされて≪対位法的変奏≫で作曲?されているということである。私にはなんの事だかよく分からないけれど。ほかの作品を聞いての印象では、この作曲家は構造を根っこに押さえて世界を作り上げるところにどうやら特徴があるようだ。以上4曲聴いたわけだけれど、やはり今回もほんとう、聞くに値する日本の電子音楽である。
柴田 南雄(しばた みなお、1916年(大正5年)- 1996年(平成8年))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8D%97%E9%9B%84
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/jshibata/
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