yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

哀しみと怒りと悲痛を静穏に歌い、荘重な弦の響きに祈るヘンリック・グレツキ『交響曲第3番』(1976)。

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Gorecki Symphony No. 3 "Sorrowful Songs" - Lento e Largo

        


       すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった(フランクル『夜と霧』)



≪極限状況は、およそどのような教訓からも自由であるというのが、私が得た唯一の「教訓」である。人は教訓を与えられるために、極限状況へ置かれるのではない。人はそこでは、そのまま状況におしつぶされるか、かろうじてそこから脱出しうるかのいずれかになる。もしわずかに脱出しえたにせよ、帰って来たものは、何らかの形ですでに、人間としてやぶれ果てた姿だという事実を忘れるべきでない。一人の英雄もそこからは帰ってこなかったのである。≫

                     (石原吉郎『海を流れる河』花神社・1974より)



いささかミーハー的な選択であったかもしれない。以前からの何がきっかけでこの曲を知ったのかは記憶に定かではない。≪なみいるロックやポップを抑えて英ヒットチャートの6位を記録・・・アウシュヴィッツの悲劇を荘厳に歌い上げた胸に迫る交響曲≫(NAXOS盤オビのコピー文)。確かにこの通り間違いはない。ユダヤ人殲滅アウシュビッツの愚行への怒りと叫びは、その悲しみを静穏のうちに歌い、それゆえに荘厳荘重な弦の響きは残されたもののいっそうの悲しみを募らせる。激することはない、もはやそれが何になろう。祈りとは静謐に神とともにあることだ。胸迫る受苦の悲痛にひたすらこうべを垂れ、祈ることの静謐にすべてをゆだねよう。斯くいわんばかりの緩やかな起伏のみで構成されたミニマル・アンビエントなヘンリック・グレツキHenryk Gorecki(ポーランド・1933‐)の『交響曲第3番』。副題は「嘆きと悲しみの交響曲」となっている。訊かずともその曲の趣をしみじみ胸にすることだろう。ドラマティックな曲想展開を期待してはならない。これは音楽を聴くのではなく、静穏にありて、ともに哀しみと悲痛を受苦し祈りを捧げるためのものでもあるからだ。祈り、そして思えということだ。70年央、このようにポーランドの前衛たちもイギリスのギャヴィン・ブライアーズや、マイケル・ナイマンらのミニマル・アンビエントなニューロマンティシズムの潮流と軌を一にしていたことを知って、いまさらながら時代は旋回していたのだなと確認した。旋律の回帰がこうした新しい装いで始まりつつあったのだろう。そうした成果でもあった。すべての希望と夢を無残に打ち砕いた人間の集団殺戮の愚行。だが人は平和に耐えることが出来ない。人は平和の安穏に退屈倦怠し、腐敗する。絶えざる理性的努力をそれは必要とする。争わざる努力をそれは絶対的に必要とする。平和とは戦争の一時休止の謂いでしかないのだから。

      「神の使いの小鳥よ、歌いたまえ

            母親は彼を見つけられないのだから

                  神の花々よ、一面に咲きたまえ

                         息子が安らかに眠れるように」


それにしても、静かさのなかにおとずれる感動ほど、天を仰ぎ見、こうべを垂れ祈ることの自然な感情の真率をわたしは知らない。




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ギャヴィン・ブライアーズ。(大いに勉強させていただいている素晴らしいホームページです。)
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