yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

惜しい政治旋回を思う高橋悠治の『オルフィカ』(1969)と、炸裂する音響交錯にダイナミズムを提示する石井真木『打楽器群とオーケストラのための響層』(1969)

イメージ 1

このブログでも常套句のように毎度出てくる、1968-9年問題。政治経済におよばず、芸術分野においてもさまざまな動きの顕著な時代であった。世界的な学生運動の高揚、変革の動き、それに呼応するかのごとき音楽上の動きも目を見張る面白さ熱気に溢れた時代でもあった。そうしたことの一端は、拙ブログで取り上げた音楽をめぐる記事等でおおよそは知ること出来るのではと手前味噌に思っている次第。もっとも、それが主旨でもあってのブログ開設であったのだけれど。そうした、たぎっていた時代の1969年に作曲された曲の収録されているアルバムが今回取り上げるもので、おそらく日本で最初のコンピュータ上で論理・データ処理等をおこなって作曲されたといわれている高橋悠治(1938-)の『オルフィカ』と、その風貌にたがわぬエネルギーの塊のような炸裂する音響交錯にダイナミズムを提示する石井真木(1936-2003)の『打楽器群とオーケストラのための響層』が収められている。石井作品など、さぞかしコンサートホールでのライヴではクライマックスでの音量の爆発的エネルギーに<空=ウツ>の放心の快とでも言える、魂が吸い取られ、一瞬しじまにつつまれるような不思議の余韻を味わったのではないだろうか。ところでもう一曲の高橋悠治の『オルフィカ』。名が伏せられその音だけ聴けば、おおかたが、クセナキスの作品ではと思うほどであろう。コンピュータでの論理計算処理といった作曲技法上での同型性があればこその類似といえるのかどうかは分からない。こうしたことが理由なのかどうか定かではないが、高橋悠治はこうした作曲手法を放棄し、コーネリアス・カーデュや、フレデリック・ジェフスキーとさして変わらぬ、きわめて政治的な大衆化路線へと旋回したようである。少なくとも作品の音響世界を耳にする限りにおいてそれは否定しようもない事のように思える。機器が壊れ、嵐が去り熱気も冷めたせいもあったのだろう、もう20年近くエアーチェックする習慣を失って久しいけれど、以前、たまたま大昔に録りためていたカセットテープを自動車での通勤途上に聴いていたら、コーネリアス・カーデュの作品を解説者の近藤譲が、<こうした政治的主張を持つ曲は、すべて似かよった音になるようだ>とのコメントをしていた。おそらくその印象は間違いではないだろう。そうした意味で、社会主義という壮大な歴史上での実験の失敗、破綻を確認した今、その中で行われた芸術運動、芸術のあり方、芸術の政治的な大衆化なども同様、一応の決着がついたのではないかとも思える。別にそうした潮流があっても許容されるという鷹揚さを得られたのが教訓といえば言えるのかもしれない。多様なあり方の許容という地平を結果したという意味では無駄ではなかったのかもしれない。とはいえ、彼、高橋悠治はとことんここで踏みとどまるべきではなかったかと思えて仕方がない。その後の、あまりの迷走ぶりを、それも受け入れがたい方向へと音楽世界が作られているのを目にし聴くにつれそう思う。論理の徹底からの、未だ聴いたことも、見たこともない抽象の美の創造、そこにこそ彼の世界はあるべきではなかっただろうかと、この『オルフィカ』を聴いて思った。師でもあったクセナキスが抽象論理を食い破り民俗・土俗の異形をその抽象の果てに切り開き、グリッサンドするクラスターの響きなどの斬新で、無調の閉塞を打ち破り震撼させたように日本のそれを期待するのは私だけなのだろうか。かえすがえすも惜しいことと私には思われる。