yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

潤いのある電子処理音、センシティヴがひかる音響作品フランソワ・ベイル『TREMBLEMENT DE TERRE TRES DOUX』(1977-78)ほか。

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Bayle: "Eros Bleu"

              
                      
       ≪神は見えません。見えるとしたら、それはヴィジョンの中です。

                   神はきっと光とか信号とか情報のようなものです。≫

                           (松岡正剛『花鳥風月の科学』(淡交社)  
   


<かつて工作での鉱石ラジオ、ゲルマニューム発光ダイオードラジオからかすかに聞こえてくる音、電波のあいまいな検波同調がつくりだすウエーブノイズは少年の心への不思議のざわめき、音連れであった。≪……彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼はしぶきの満ちた中にゴム引きの外套の匂いを感じた。すると目の前の架空線が一本、紫色の火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度うしろの架空線を見上げた。架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった……≫(芥川龍之介「ある阿呆の一生」より)これは松岡正剛の『電気は文学である』なるエッセーからの孫引きである。電気がもたらす青白いスパークする鮮烈な光と音に不思議を感じる眼差しには《命と取り換えてもつかまえたかった》と言わしめる、なにやら存在のそこはかとない無に溶けいる消息の気配さえ感じさせる。電気ノイズにはこのような存在の無の気配の招来を感じさせるものがありはしないだろうか。ジージージーという何気なく発せられる電子ノイズに耳そばだてるこころにやってくるものとは、56億7千万年かなたより発せられる宇宙的涅槃の誘いとでも言いたくなる妖しさである。>(拙ブログ・ジョン・ケージ 『VARIATIONS Ⅱ』より)

         ≪扇風機の雑音こそ美の脈動を秘めるものである≫(オスカー・ワイルド

さて、今回取り上げるフランソワ・ベイルfrancois bayle(1932-)は既に拙ブログにて一回登場している作曲家である。正確には音響開発作家と言ったほうがいいのかも知れない。
≪ラジオ・フランス内にINAという組織が持つGRMというコンピュータ音楽研究施設があり、これをINA-GRM(イナグラム)と呼んでいる≫(WIKIPEDIA)その<Groupe de Recherches Musicales de Paris>いわゆるGRMの初代所長ピエール・シェフェールの後継二代目所長として66年よりその要職に就き、その分野で貢献しているとのことで、その道ではエキスパートであることを証してもいよう。
その前回のブログでは以下のようにアルバム紹介をしたためた。すなはち<リュック・フェラーリの淡々と流れる具体音の中での、僅かしらの巧みなまでの変調処理に異和の経験世界を提示するミュージックコンクレートとも、また付帯音楽、ライヴパフォーマンスが多いピエールアンリにみる、素材の要素への解体と組み立てに見る遊び(テクノサウンドの祖父とも評されているらしい)と物語性、新しい音響世界を切り開いてみせる才走った(未来派)感性の煌めきともちがった、理性と感性のあわいに穏やかさをもって、先の開発された音響等とテープ具体音と純然たる発生電子音の変調によるコンポジット作品となっている。これもベイルが研究施設の要職にあり、かつそこでの成果の集成ということもあってか、奇抜、奇異なところは比較的少なく、組み立ての巧みさで楽しませるということにもなっている。>と、斯くナイーブなセンス、音を聞き込む真摯さがこうした音響作品として結実しているのだろうと思われる。こけおどし、ハッタリのないところも好感されるところである。
A面のタイトルが『TREMBLEMENT DE TERRE TRES DOUX』(1977-78)心地よい顫動、震えとあるように、そのとおりの印象であり、音響開発素材にアコースティック楽器を使い、弦などの倍音の響きを生かした潤いのある電子処理音が巧みに使われているせか、センシティヴがひかる音響作品となっている。
よくある楽音作曲家の実験的試みなどのレベルとは較べようもないほどに、さすが知り尽くしての斯界のエキスパートだけあると感じさせる手練で、密度の濃い引き締まった電子音響コンポジションとなっている。
B面は『ESPACES INHABITABLES』(1967-68)と『TROIS REVES D`OISEAU』(1969-72)の2作品。で、後者はアコースティック楽器と電子音とのリアリゼーション作品。いずれも興味深く楽しめる作品である。


以下は拙ブログよりの再録。――――

さてここで60年央以降にみる電子音楽の隆盛を、音楽と科学技術との絡みで時代史的に背景をふりかえってみるのも意味のあることだと思われる。以下は、現代前衛音楽普及におおいに力あずかった評論家、故秋山邦晴のオブジェマガジン『遊』<1005>(1979)にて<電気・電子音響音楽史>を語った文章からの抜粋である。

≪電気で音を出したいという発想は、結局のところ「知覚の拡張」.と「音の無限分割」に対する人間の憧憬にもとづいているのでしょうね≫

≪音というのは不思議なほどに認識と深く結びついているのですよ。とくに現代音楽と.知的頭脳の構造的変化との関係は緊密です。現代音楽は認識の音楽でもある。………演奏が認識作業であり知覚の自由な拡張である………音こそが肉体の限界を超えるためにあると考えるべきではないでしょうか。「われわれの新しい電気的テクノロジーはわれわれの中枢神経組織の拡張である。」(マクルーハン)≫

電子音楽の誕生において、≪原始古代では調律されていない騒音や雑音が主体であった音楽は次第に平均律の構造にむかい、近代においてすっかり騒音を駆除し終わったところへ、再び騒音の復権が持ち出されてきたという結構をみることができる。「騒音から楽音へ」という古代から近代への流れは、1950年前後のミュージックコンクレートと電子音楽によって大軌道転回を迎え、再び「楽音から騒音へ」の正念場を経験させられるわけです。≫

≪このミュージックコンクレートと電子音楽の誕生に関しては、1930年代をピークとして足踏みをしはじめた量子力学の歩みが一歩において語られるべきかもしれない。J・Jトムソンによって発見され、ヘルマンワイルによって「自然の新しい主語だ」とまで言われた電子(エレクトロン)が、いっさいの量子力学的思索を終了した1940年代から徐々に現代音楽の底辺に滲み出し、50年代になって遂にテープ上に定着された――とも俯瞰することができるわけです。≫

シュトックハウゼン電子音楽の最大の発見はリズムと音高と音色が物理学的に同一のものであったということにある、と言いますが、この言葉にはハイゼンベルクらの量子力学がもたらした「物理学的統一像」のイメージがあきらかに音の世界像とアイデンティファイされている事情を窺うことさえできそうです。実際にもセリー・アンテグラルの『音価と強弱のモード』(オリヴィエ・メシアン1947)や、シュトックハウゼンのこの時期の多くの曲にみられるようにここにおいてはじめて音はひとつのフィジカルなスペクトルとしてとらえられた。音をスペクトルとして設定すると、たとえば単純に言って、スペクトルの最低周波数が音の音高となり、同じスペクトルの高次な部分音が音色となり、またこの音をそのまま低い音域に移し変えてやれば、音色を表現していた部分音は周波数に応じて音高を表現しはじめるに至る――といったことになる。もっと低周波に移してやれば、単純な周期的なパルスにもなるわけですね。このような考え方をセリー・アンテグラルと言いますが、それは、音を時間函数の内にとらえうるきわめて量子力学的な発想だったとも言えるわけです。ここに音は新しい「組織思考」をもつに至った。≫

≪こうして日常のなかの音、一滴の小さな水音、物体にひそむ音、生理にからむ音、その他多くの音が電気的に増幅することが出来るようになると、鋭い音楽家たちの思考はその作曲方法をあらゆる分野に求めるに至ります。数学はむろんのこと、生物学や物理学、あるいは中国の易の方法やロールシャッハ・テスト、さらには地下鉄路線図からランダムパターンや落書きにいたるまでもが、音づくりの原形やマニエラとして活用され、ここにジョン・ケージのいうところの「チャンス・オペレーションによる作曲」の時代が到来したわけです。≫

≪偶然的なるものへの着目、あいまいさや不確定な音への挑戦が生まれた背景には、当然ハイゼンベルク不確定性原理などがもたらした量子力学上の成果が預かっているし………これを文学あるいは美術上の概念で言えば、シュルレアリスムの音楽への適用ということになるかもしれない。≫

≪いずれにしてもこのような手法が次々と開花できるのは、音がテープ録音でき、またそのテープをいかようにも編集できるようになったからなのです。そういう意味ではミュージックコンクレートと電子音楽にはじまった現代の電気電子音響音楽は「テープミュージックの時代」と言ってもよいわけです。≫



       物質は光をめざし 光はただ物質を生みつづける

                光を量ろうとしても無駄だ

                      それは神に手をかけている」(松岡正剛



フランソワ・ベイルfrancois bayleのホームページ。各項目クリックするたび、ごく僅かですが彼の音響イメージの確認が出来ます。また、discogrphie項目にてベイル作品のサワリを楽しめます。
http://www.magison.org/

フランソワ・ベイル、マイブログ――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/30992261.html