yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

シュトックハウゼンの電子音、ピアノと打楽器のための『コンタクテ(接触)』(1960)をエレクトロニック・ノイズサウンドの刺激に満ちたデヴィッド・チュードアで聴く。

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Karlheinz Stockhausen : Kontakte {PART 1/4} David Tudor, piano & percussion : Cristoph Caskel, Percussion, Karlheinz Stockhausen, tape, Gottfried M. Koenig, electronics

          

デヴィッド・チュードアーDAVID TUDOR    
イメージ 2≪ここでは人は、各瞬間に、1つの最小限あるいは最大限を期待しなければならない。そして、現在あるものから何らかの発展の方向を確実に予言することは不可能なのである。それは常にすでに始まってしまっており、無限に遠くまで行くことができるであろう。そこでは、1つ1つの現在が数え上げられるか、あるいは全然何もないかである。そこでは、過去の単なる結果としての現在、及び人が望み、目的とする未来へのアウフタクトとしての現在が休みなく続くのでなく、それ自身で存在しうる、個別的なるもの、自律的なるもの、焦点におかれたものとしての現在があるのである。この形式(シュトックハウゼンの謂うMOMENTFORMなる概念)では、一瞬は、1つの時間の線の一片ではないし、測られた持続の部分であってはならない。そうではなくて、ここでは現在――現在の1つ1つの――への集中はいわば、垂直の切れ目を作り、それが水平の時間概念を余すところなく断ち切って、ついに無時間性に至るのであって、これを私は永遠性と名付けるのである。この永遠性は、時間の終わりから始まるのではなく、すべての瞬間に到達しうるものである。私が述べている音楽形式では、ただひたすらに時間概念、正確にいうならば持続の概念を粉砕すること、実際それを克服することを試みているのである。≫(解説・訳、柴田南雄、K・シュトックハウゼン)従来の、ズルズルべったりの未来へ続くとする目的に縛られた現在、その持続としての時間ではなく、現在の無時間性、永遠性を開け広げるものとして音楽形式を捉えた。これは日本人にとっては、了解しやすい時間概念であり、哲学、思想である。これは、やはりソ連邦社会主義革命と全世界的規模の第二次世界大戦、とりわけドイツにてのホロコーストという人類的悲劇の事態への思想・哲学的反照ゆえの歴史主義から実存主義への思想・哲学的な動きとパラレルな音楽革新であっただろう。これはケージの禅に感化されての無・易思想から革新提示された偶然性・チャンスオペレーションと軌を一にする事態でもあるだろう。だがはたしてこれほどに深遠な哲学が背景に横たわっているが故の作品とは私には俄かには信じがたい。ケチをつけているのではない。このシュトックハウゼンの電子音、ピアノと打楽器のための『コンタクテ(接触)』(1960)は、かのアヴァンギャルドパフォーマーにしてピアニストのデヴィッド・チュードアーDAVID TUDOR(1926 - 1996)がドイツの打楽器奏者クリストフ・カスケルとの二人でリアリゼーションしたものとして興味募らすものであり、その期待に違わぬひじょうに聴き応えのあるアルバムとなっている。さすが現代音楽・アヴァンギャルドスペシャリスト、電子音楽(ライヴエレクトロニクス)の申し子とでもいえるチュードアーだけあって、新しいエレクトロニック・ノイズサウンドの刺激に満ちた世界を開示してみせる、その感性は感嘆のほかないものであるといえるだろう。スピーカーではさほど感じない音像移動の動きがヘッドホンで顕著に感じ取れる意味で、この音盤は是非ともヘッドホンで聴くべきである。それはまた、ステレオ音源という制限のもとで、シュトックハウゼンの意図する音楽の空間性を幾分なりとも了解する意味でも重要なことと思われる。聴きもののデヴィッド・チュードアーであり、その『コンタクテ(接触)』、1960年という、まさしく時代の生んだ傑作である。


≪1つのMOMENTは――形式的に見て――1つの形態GESTALTでありえるし、1つの構造であり得る。あるいは双方の混合であり得る。又時間的に見ると、それは1つの状態あるいは過程であり得るし、あるいは双方の結合であり得る。≫(解説・訳、柴田南雄、K・シュトックハウゼン)もうこれは<ホロン>であり、華厳思想ではないか。!?