yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

Joan La Barbara (1947-)でジョン・ケージ『SOLO FOR VOICE 45 from songbooks』(1971)など他のボイスパフォーマンスを聴く。

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声楽のパフォーマンスというよりJoan La Barbara (米・1947-)の作曲作品といったほうがいいのかもしれない。ともかくアヴァンギャルド声楽家としての名声ゆえに、その声のパフォーマンスを期待するが、このアルバムでは彼女のテープ処理をともなったエレクトロニクス作品がメインであるようだ。二つの作品とも鬱蒼とした森のなかでのさまざまな生き物の鳴き声のようにも聴こえるヴォイスパフォーマンスが、電子音のドローンのうえでなされる『CATHING』(1977)にせよ、打楽器(ティンパニー)を打ち鳴らすことを基調とするエモーショナルな雰囲気のなかでなされる『THUDER』(1976)にせよ、どちらも生命の胎動のようなひそやかなエネルギーの充溢をさえ感じさせる作品でありヴァイタルな印象をも感じさせる。『THUDER』など、何処のというのでもない抽象普遍的(=原初的)な土俗・民俗性を感じさせ、声の電子処理された特異な作品として面白いものとなっている。ところで、特異な発声法を駆使して現代音楽の声学作品で耳目をあつめたJoan La Barbaraがジョン・ケージの『SOLO FOR VOICE 45 from songbooks』(1971)をリアリゼーションしたものを聴くというのが多分このアルバムを購入した動機であっただろう。今回聴いてやはりすぐには言葉が出てこなかった。了解のし難さが付き纏うのであった。別段美しイメージ 2くとも鬼面人驚かすようなセンセーショナルでもエキセントリックでもなく、しかし引っかかるのである。たぶんそれは<意味>ということなのだろう。その成立の土台、意味連関が、制度性が、時間性がまったく崩されている<声>の浮遊する異形のあり方。まったく意味を形成しない人声のランダムな音の世界は、やはり純で、抽象ゆえ美しいというより、なにか人を不安にさせる。いかに人は意味という世界に囚われているかということなのだろうか。鳥の声にしろ、自然の音にせよ、それらはある種、精神の平衡を崩さない。人はそれらを現存在の世界に繰り込んでいる。それが<現>とともにある世界であり、自然であり、意味を成す世界、地平である。このように、さまざまな気分の内にそれらを統覚し聞き入れ了解する。しかしこのアルバムでの2曲目ジョン・ケージの『SOLO FOR VOICE 45 from songbooks』(1971)はこうしたことが突き崩される。どうしても意味性が付き纏てしまう人の声が、たんに音としてのみ浮遊する人声は、意味から解き放たれた無垢の生成、その純な音とも聴こえず、なにか言いようのない不安と落ち着きのなさが迫ってくる。声とは音という抽象に還元しえず不思議であることのみが滓のように残るのだった。




Morton Feldman - Three Voices for Joan La Barbara VII-X (1989)