yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

苦悩の時代、美しく結晶する無垢の響き。ジョン・ケージ『THREE DANCES for two amplified prepared pianos』(1944-45)

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         ジョン・ケージ(上記作品ではありません)


ジョン・ケージJohn Cage
イメージ 2 今回のアルバムはアメリカでないとたぶん出てこなかっただろう音楽。文化新興国アメリカ人の発明した音楽といっておこう。ジョン・ケージJohn Cage(1912-92)は師のアーノルト・シェーンベルクに『あなたはには発明家の素質がある。』と音楽以前のお褒めの言葉を頂いたそうである。ピアノの弦にボルトやゴム片など種々の物を挟み込んで調弦し、音色の変化をつけて、まるでガムランのスティール打楽器のような響きに変えてしまい、民族楽器のパフォーマンスを西洋音楽のピアノという完成された調律楽器で現出せしめたそのアイデアシェーンベルクの言葉を戴くまでもなく、賞賛すべき発明ではある。ここに収められたケージの『THREE DANCES for two amplified prepared pianos』(1944-45)はタイトルから察せられるようにダンス音楽のための作品である。ユーモラスと何かしらの悲哀を感じさせる響きがなんとも、この時代のケージの精神の在り処を指し示しているかのごとくである。かの有名な(音の充満した!?)<沈黙>の発見『4分33秒』は1952年である。≪初演は1952年8月、米国ニューヨーク州ウッドストックで、ピアニスト、デイヴィッド・チューダーによって行われた。≫(WIKIPEDIA)またその発見の背景となるインド音楽・東洋思想への瞠目傾倒、コロンビア大学で<禅>を講義していた鈴木大拙との出会いなどすべてがこの時期に集中しており、経済的困窮等私生活上でのそれと共に音楽思想上でも苦悩が押し寄せるなかで、のちの音楽史上での画期となるコンセプトが醸成されるのだった。プリペアド・ピアノの名作『ソナタとインターリュード Sonatas and Interludes』(1948)もこの苦悩の同時期に作曲されている。私は今回この記事のために偶々目にすることになった、優れた堀内宏公氏のジョン・ケージに関するネット記事のなかで初めて知ったのだけれど≪子供の頃、ケージはエドヴァルド・グリーグ(1843-1907)のピアノ曲が大変好きになり、グリーグだけを弾くコンサート・ピアニストになろうと真剣に考えていました。そこからエリック・サティの透明な詩情の世界へはほんの一歩です。ケージはサティを発見し評価した最初のアメリカ人でした。初期ケージの夢幻的なピアノ(およびプリペアド・ピアノ)小品の数々は、こうしたグリーグやサティに共感する感性が背景にありました。≫(堀内宏公氏)とあるではないか。ケージがグリークのピアノ曲が<大変好き>であったとは!これであのケージの初期ピアノ曲の、もちろんこの『THREE DANCES』もその時期に重なるのだけれど、≪おおむねケージの初期のピアノ作品は拙ブログでも印象を述べたが「なんとも孤独で美しく、やさしくもの悲しげな響きをもっていることだろう。まことにピュアーである。」≫(マイブログ記事、<ジョン・ケージ『Sonata and Interludes』世界初演盤>より)といった印象の出処を知らされた思いであった。サティーの影響、親近性は知っていた。しかしグリークとは。なるほど氷解であった。グリークは私の好きな作曲家でもある。そういえば、確証はないらしいけれど、グレン・グールドはグリークと縁戚であると主張しているそうだ。それはともかく、やさしく親しみのある、しかし純で高貴でもあるその民俗精神。まことに<私>を放棄した、捨てた人の美しさがこれらにはある。・・・いささか疲れたのでここまでとしよう。もう1曲のスティーヴ・ライヒSteve Reich(1936-)のミニマルミュージック『FOUR ORGANS for four electric organs & maracas』(1970)に関しては、彼の他のアルバムを取り上げるときまで繰り延べることとしよう。
やはり1日に1稿はしんどいことである。べつに誰からも強制、要求されているわけではなく、ただ単に自分を鼓舞すべく課しているだけの話ではあるが。         スティーヴ・ライヒSteve Reichイメージ 3






堀内宏公氏の<JOHN CAGE>ページ
http://homepage3.nifty.com/musicircus/cage/

                              

カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。1930年にパリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーのもとで建築を学び、1934年から1937年まで南カリフォルニア大学シェーンベルクに師事する。1942年にマックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年にマース・カンニングハムとの最初のジョイント・リサイタルを行なう。1948年にはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、同じく教師であったバックミンスター・フラーや生徒だったロバート・ラウシェンバーグと影響を与え合った。≫(WIKIPEDIA)偉人は斯く偉人と出くわすのだろうか。やはり行動力が並外れているのだろう。もちろんスパークする知力が在ってこそだろうけれど。