yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

無調に崩れかけて耳障りであり、引っ掛かりがあって面白いセシル・テイラーのピアノソロを聴く『COLTRAINE TIME』(1958)。

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セシル・テイラーCecil Tyalor
イメージ 2念のため、アマゾンで検索。そこで今回取り上げようと思った『COLTRAINE TIME』(1958)のレヴューがあったので読ましてもらった。なんでも、このアルバムは≪コルトレーン名義ながら実はセシル・テイラーCecil Tyalorのリーダーアルバムとしてリリースされたもの。≫ということであった。このアルバムを購入した動機も、また今回取り上げようとした理由も、コルトレーンを聴きたくてではない。コルトレーンファンには申し訳ないけれど、目的は、セシル・テイラーであった。私にはエリック・ドルフィーEric Dolphyほどにはコルトレーンは面白くなかった。まったく、ごく単純で明瞭である。ま、私にはそのコルトレーンのいわゆる高度?な音楽性が分からないのだろう。今に至るまでそうである。何度聴いてもそうである。それゆえ≪ジャズ評論家であった大橋巨泉氏は「コルトレーン以降のジャズはメロディをうたうことを忘れたのでついていけない」と言ってジャズから離れたとか≫(『COLTRAINE TIME』レヴュー記事より)といったような、こうしたコメントを哄うことは出来ないようだ。メロディー云々ではないのだけれど、面白さが私には分からないのだ。ごく普通?すぎて。やはりセシル・テイラーエリック・ドルフィーの耳に障る特異さが私には好かったのだろう。無調にフレーズが崩れてゆくさまがスリリングでよかったのだ。コルトレーンのソロよりテイラーのピアノソロの方が数段に無調に崩れて耳障りであり、引っ掛かりがあって面白いのだ。ドルフィーも同様、あのジャンピングしていななくフレーズのサックスが堪らないのだった。のち、晦渋にフリーしてゆくセシル・テイラーより、この時期イメージ 3のフリーへのとば口のセシル・テイラーのほうが興味深く面白い。難儀な性分だけれど分かり易さがいやなのだろう、天邪鬼へそ曲がりのゆえである。最後に、すぐれた現代音楽作曲家で拙ブログにも何度か登場している間宮芳生(みちお)のコトバが目に留まったので引用しよう。≪ぼくの歴史は、いわばべたぼれに音楽にほれっぱなしのようなものだが、それでもほれ具合にいろいろ波はあった。そして何か決定的な印象を受けるような音楽かイベントに出会って、あらためて音楽に惚れ直した日が幾たびかあって、その結果は今も音楽に引き寄せられっぱなしである。・・・・モダンジャズの鬼才エリック・ドルフィー(アルトサックス奏者―故人)に出会った日などは、音楽に何度目かの惚れ直しをした日として、僕のなかに焼きついている≫(間宮芳生ピアノ協奏曲第2番』レコード解説文より)好きな作曲家のコトバとして目に留まり単純に欣喜したことであった。
                               エリック・ドルフィーEric Dolphy