yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

DADA的音響のパッチワーク的世界に興趣つのる、斜(ハス)に構えるリュック・フェラーリの『Interrupteur』(1967)と『Tautologos3』(1969)。

イメージ 1

Luc Ferrari ~ Interrupteur ~ 1/4

             

リュック・フェラーリLuc Ferrari
イメージ 2≪大里:70年の大阪万博で、悠治さんがフェラーリの『ウント・ゾー・ヴァイター』を弾かれたのはご覧になったんですか?
近藤:僕は聴衆でした。
大里:その前にフェラーリっていう名前はご存知でした?
近藤:さあ、憶えてないなあ。でも悠治さんが弾いたのは非常に新鮮で面白いと思ったけど。あのリサイタルで弾いたのは……僕の、もし間違いでないとすれば、ケージのチープ・イミテーションってあの時代?もっと前?
大里:ケージのチープ・イミテーションができたのは60年代ですね。
近藤:だから弾いてる可能性ありますよね。それとリュック・フェラーリのが一番印象に残ってたんじゃないかな。で、なんて言えばいいのかな。僕、フェラーリの音が好きなんですよ。音とか音楽の成り行きが。それがすごく印象にあるのと、非常にモンタージュ的でしょ、音楽の作り方が。それが非常に新鮮でしたけどね。
大里:そのうち確かヴェルゴでそれのアルバムが出ますよね。
近藤:ええ。
大里:それが何年だったかな。その頃には近藤さんもフェラーリのこと既にいろいろご存知だったんですか?
近藤:いや、そんなに情報がなくて、ボクが最初に手に入れたLPはパテマルコニかな。
大里:ああはいはい。
イメージ 3近藤:『トートロゴス(III)』と……
大里:『インタラプトゥール』。
近藤:『インタラプトゥール』。あれは好きで何度も聴きましたけどね。
大里:それでムジカ・プラクティカなさってた時に演奏なさいましたよね。
近藤:ええ。
大里:両方やられました?
近藤:いや、『トートロゴス』は……あ、やったな。
大里:『トートロゴス』はやったんですよ。
近藤:『トートロゴス』と『インタラプトゥール』両方やりましたね。
大里:ですよね。で、要するにその時にフェラーリから楽譜送ってもらったわけですよね。 (近藤譲)  
近藤:いや、メックのを買ったんだよ。
大里:あ、買ったんですか。
近藤:そうですよ。メックから出てたでしょ?
────サラベールからじゃなかったんですか。
近藤:うん、ポーランドのメックから出てたんですよ。だから(本人との)接触は何もない。
大里:また、なんかやるから送れとかそういうやりとりがあったんだと思ってたんですが、そうじゃなくて。
近藤:うん、全然そうじゃなくて。
────『トートロゴス』って、不確定の要素が強いけど、確定したバージョンっていうのがあるんですが……。
大里:それをやられたんですよね。
近藤:うん。一人一人全然テンポが違う。あれはフェラーリが自分で音符にしたコンサート用のヴァージョンですよね。だからパテマルコニのLPに入ってるのとはもう全然違いますよね。あれはシモノヴィッチだっけ?
大里:はいはい。
近藤:か何かがやってる。
大里:で、それでその頃フェラーリのこれをやろうと思われたのはどういう動機というか。
近藤:いやあどういう……困ったな(笑)。まあその、好きで面白い曲はやろうという気があったから(笑)。
大里:基本的にそうですよね。
近藤:それだけなんですけどね。
────フェラーリを日本に紹介しようとか、そういう使命感みたいなのはあったんですか?
近藤:いやボクはね、一般にそういう意識はないんですよ。誰を紹介しなけりゃいけないとかそういう感じはないんで。
大里:結果的にそうなってるということですね。
近藤:そうです。
近藤:『インタラプトゥール』。あれは好きで何度も聴きましたけどね。
大里:特にムジカ・プラクティカでやられたのが日本初演みたいなのが相当あった。
近藤:そう、それでシェルシみたいなのも、別に紹介しようとかって思ってやってるわけでも何でもないんだけど。
大里:たんに好きでやったらそうなったって事ですか。
近藤:うん、それからもう一つは、当時っていうか60年代70年代にはまだ前衛の主流がわりと盛んだったでしょ。だからポスト・セリエリズムから出てきて、それだけじゃないけど前衛の主流から外れたところの面白さっていうものに興味があったから、その意味ではフェラーリも外れてますよね。
大里:ええ。
近藤:それでちょっと興味があって。≫

     【ネットページ「フェラーリ談義・近藤譲(作曲家)×大里俊晴(音楽評論家)」より引用】

上記談義中の
≪近藤:いや、そんなに情報がなくて、ボクが最初に手に入れたLPはパテマルコニかな。
大里:ああはいはい。
近藤:『トートロゴス(III)』と……
大里:『インタラプトゥール』。≫

という箇所から察するに今回取り上げるリュック・フェラーリLuc Ferrari(1929-2005)のアルバムがまさしくこれと同じものなのだろう。指揮は、コンスタンティン・シモノヴィッチKonstantin Simonovitisch 。A面の『Interrupteur』(1967)。B面は『Tautologos3』(1969)。である。ともかく当たり前でない、≪外れて≫いる音楽であることは確かだ。≪主流から外れた≫ところに位置していたフェラーリの音楽は息苦しい閉塞の主流音楽セリエリズムを斜から突き崩そうとする試みに感ぜられ、共感と快哉を贈られていたのだろう。モンタージュ、コラージュと云っていいのだろうか、ごった煮的にさまざまな要素が生きいきと嵌め込まれ、そのパッチワーク的な意外性、そのDADA的音響の世界が新鮮を提示する。『tautologos3』のミニマル(反復)的でもあり、パッチワーク的でもあり、それが奇妙に新鮮な感覚をもたらす。傑作とかというのではないのだけれど、当たり前に飽き足らない、斜(ハス)に構える天邪鬼にはことのほか面白い(不確定)作品である。これを気に入っていた近藤譲、その≪外れ≫ぶりに共感をおぼえていた若き近藤譲に賛意を贈ろう。そして、私は<トートロジー>なるもの(概念)が、なにやら深長で大好きである。


マルセル・デュシャン――・・・・あなたはウィーンの論理学者たちの話を知っていますか?

カバンヌ――いいえ

マルセル・デュシャン――ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私がイメージ 4理解した限りでは、すべてトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学トートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです。このブラックコーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。眼がブラックコーヒーを見ている。感覚器官のコントロールが働いています。これは真実です。ほかの残りは、いつもトートロジーです。

      『デュシャンの世界』(M.デュシャン、P.カバンヌ)朝日出版社



Luc Ferrari - Tautologos I



リュック・フェラー、関連マイブログ――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/21785852.html