yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

大バッハの心うつ原曲をピアノ編曲で時を越え今一度の余白の点睛を聞く。高橋悠治のバッハピアノ編曲作品集『YOUJI PLAYS BACH』

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Helene Grimaud Chaconne in D minor -1-

              

フェルッチョ・ブゾーニFerruccio Busoni
イメージ 2これは、商業的に売れ線を狙って作られたのかと勘ぐりたくなるほどに、バッハの美しさに満ちたピアノ編曲作品集『YOUJI PLAYS BACH』であった。針を落とし聞こえてくる曲、聞こえる作品すべてといってもいいくらい馴染みのあるフレーズが心に届きしみてくる。ぜひとも聞いていただきたいアルバムである。原曲も素晴らしいが、ピアノ編曲での鑑賞も趣き違い、これはこれで素晴らしい体験ではある。B面には、すでにしてそのような試みとして有名なイタリアはフェルッチョ・ブゾーニFerruccio Busoni(1866 - 1924)の2作品が収められている。
ところで、どうでもいいことだけれど、このブゾーニ≪本名はダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェルッチョ・ブゾーニ≫(WIKIPEDIA)。凄いものですダンテ・ミケランジェロとは。それはさておき、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ第2番の神々しく、厳かに張り詰めた『シャコンヌニ短調』をピアノのために編曲した作品と、それにクラシック音楽にあまり縁のない人も知るというベートーベンの5番・運命の出だしのフレーズ同様に、あまりにも有名な劇的なフレーズで始まる『トッカータとフーガニ短調』のピアノ編曲作品は、比較的耳にする機会もあって追認的鑑賞と相成ったが、うちとけた中にも精神の清め、浄化を感じさせるという聞き慣れた現代ピアノでの演奏もいいものだ。この2作品、とりわけ「シャコンヌニ短調」などはよく放送などでも流され聞く機会があって親しんでいたけれど、それらにもまして次のA面の6曲のピアノ変奏曲など、すべてバッハ数寄には堪らない作品ばかりだ。1、原曲はオルガン曲の『フーガト短調BWV578』(高橋悠治編曲)2、原曲フルート・ソナタの『シチリアーノBWV1031』(ケンプ編曲)3、原曲のカンタータ「心と口と行いと生活をもって」の終結コラール『主よ、人の望みの喜びよBWV147』(ヘス編曲)4、原曲はカンタータBWV140のテノールアリアのオルガン編曲のコラール『目覚めよと呼ぶ声ありBWV645』(ブゾーニ編曲)5、原曲の原曲はマタイ受難曲の有名な受難コラール、そのオルガンコラール『わが心からの望みBWV727』(ケンプ編曲)そして最後6、に極め付けに有名なマタイ受難曲の第47曲目アルト・アリア『主よ、あわれみ給えBWV244』(高橋悠治編曲)と心おきなくバッハに親しみ愉しめる。こうして大バッハの原曲を後世の人間たちが編曲したものを聞くのも、音楽が持つ本来の意味での作曲、演奏行為、聴(衆)者とそれぞれが成立する地平を浮かび上がらせ問題にするということでは意味のあることで、それゆえのアルバムの存在意義といえるのだろう。演奏者・高橋悠治はオリジナルと編曲をめぐって次のように言う≪音楽は今、ここでひびくものであり、死人がのこしたインクのしみではない≫(高橋悠治・編曲について)≪ブゾーニはいった。――記譜自体が抽象的なアイデアのかきなおしだ。イメージ 3イデアソナタやコンチェルトになる、これはすでにオリジナルの編曲だ――。これはさかさまではないか。はじめのおもいつきがもう音楽なら、ゆめみるだけでことはたりる。アイデアは抽象的なのかもしれない。しかし、具体的なかたちにふれるところからうまれるのではないアイデアがどれほどあるだろう?作曲は、すでにあるひびきを一般化し、ちがうものにかえてゆく工作ではないか。編曲はこの手続きを何倍にもふやす。編曲されることを予想する作曲は、できるだけかんたんなかたちでかきとめなければならない。作曲家がすべてのディテールをうずめて編曲のたのしみをうばうことはゆるされない。余白の部分にいちばんうつくしいディテールがだれかの手でつけたされる。音楽はそれをつかうみんなのものだ。≫(同上・高橋悠治・編曲について)


                                       高橋悠治

以下武満徹のことばから――

≪ぼくは作曲というのは「無」からつくるのではなくて、すでにいろいろのところで鳴ったり止んだりしている音を組み立てなおすことから始まるのだとおもうのです。≫

≪私は自分の作品が作者不明のものになってくれれば良いと思います。人々は私の音楽に対して自分の好きなように反応する自由をもっているべきです。≫

≪音は演奏表現を通して無名の人称を超えた地点へ向かう。≫(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」新潮社)。