yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

<もの>「実質」の亡失。飢える精神の厳しさに耳そばだて、不可能性を生きるその激する内面のドラマを聴く『三善晃の音楽』(1970)3枚組

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Akira Miyoshi ~ Trois Mouvements Symphoniques

             

イメージ 2三善晃はけっこう過激で戦闘的だ。その精神において。ロマン主義者、形式至上主義者などと括って足れりとは到底いかないようだ。その精神は激しい。収録の「弦楽四重奏曲第二番」それに「ヴァイオリン協奏曲」の見事な名作を聴けば、肯けもできよう。素晴らしき白昼の激する情熱である。滅滅たる夜ではない。彼のことばに≪ソナタに精神なんかありはしない。あるのは形式だけだ。そして形式は精神の形をしている。精神はそれを、アプリオリに承認している。≫(弦楽四重奏第一番・SAC個展小冊子・62年3月)これは有名なことばだそうである。多分これがすべてなのだろう。形式が実質なのだ。≪余裕なく歩んできた。十代の終わりからわたくしは、ものを、あるいは生き方を、と言うべきであろうか。えらぶことが出来なくなった。わたくしには、選取するのに迷うべき事柄、また、そのような事態がこなくなってしまった。、例えば生と死は、そのいずれかをえらぶことの出来る二つの事柄ではなくなった。迷う、という余裕を、わたしは持てなかった。わたくしの耳は、ただ、歩を急かす声だけを、こころの褶壁に聴きつづけてきた。≫(「三善晃の音楽」・中入れブックレットより)生と死すらも実質持たず精神から遠い。≪かつて、死も実質であった。いまは、死すら形骸となった。愛は、予感の小昏(おぐら)みにだけ、音をたしかめるようになった。例えば指の奥のほうには、その感取者がいた。それだけが、「精神の形」をなぞるはずだった。・・・いつも、いま聴こえず、いま見えないもの、が、うごかない指の奥にある。そのもののためにうごかないでいる指がある。・・・自然は、「もの」の世界にあろうか。わたくしには、うごかない指の奥にだけ、その世界がすこしある。そして、わたくしの愛は、拒絶されることで保証されている。≫この精神の立ち姿にこそ三善晃が在るのだろう。≪楽器の多様な音は、もしかすると、人間とものとの久しい断絶を歌いつづけているのかもしれない≫(ヴァイオリン協奏曲について・毎日新聞67年1月)≪「もの」からの拒否をうべなう事で自分を養っているわたくしの愛を、わたくしはロマン的なもの、という概念でかこってみた。それは意識の操りでなく、むしろ、感情だった。そういえば、わたくしの裡(なか)では、モラルは感情である。・・・あるエトス(エートス―引用者)の内側に、相克する情意がある。しかしそれらはみな、わたくしには、不可逆の原液だった。人間(エートル)は、不可能(アンポシビリテ)の形質であろう?≫なんと文学的にすぎることばだろう。わたしたちは、この『三善晃の音楽』(1970)3枚組みの作品集で見事に、その、<もの>「実質」の亡失。飢える精神の厳しさに耳そばだて、不可能を生きるその激する内面のドラマを聴くことだろう。またまたいつものことながら、ことばで音楽を聴く事になってしまった。しかし我が誇りうる音楽である事はたしかなことである。音だけが並べられているだけでは断じてない。≪ソナタに精神なんかありはしない。あるのは形式だけだ。そして形式は精神の形をしている。精神はそれを、アプリオリに承認している。≫その精神の矜持をつよく思うことだった。それはそうと、例のYOUTUBEには日本の作曲家で武満徹以外殆どアップロードされていないのは何を意味するのだろうか。最後にいくつかのインタビューへの回答の引用で終えよう。

――ジョン・ケージのような音楽は?
「私は日常生活から離脱することが創作だと思うのですが、彼は、その中に埋没する事を考えている。ジョン・ケージという人は、ものと人間との関係について、絶望しきっていないのでしょうね。」

――反社会的という評について。
「音楽とは自分の中で鳴っている音と自分との対話だと思う。それ以外に聴衆からさし出された糸の一方を責任をもってつかめるとは思えない」

――作家は二十億の飢えた人を忘れてはならない、とサルトルがいってますが。
「音楽に人を飢えさせたり、食べさせたりする力があるでしょうか」

収録曲――
ピアノ協奏曲・1962
ソプラノと管弦楽のための「決闘」・1964
歌曲集「白く」・1962
ヴァイオリン協奏曲・1965
弦楽四重奏曲第二番・1967
変容抒情短詩・1969
祝典序曲・1970
合唱組曲「四季に」・1966
合唱組曲「五つの童画」・1968



Akira Miyoshi:Nocturne