yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

余韻に独特な武満の濃密な情緒性を、意図的に排除しているように聴こえた高橋悠治のピアノ。『武満徹の芸術・ミニアチュ-ル第3集』(1972)。

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                                         瀧口修造
イメージ 3イメージ 4『ピアノ・トリステ、武満徹と黛敏郎』と題してこのアルバム写真はすでに出されている。そこでは、ピアノ作品に関してというより、尾ひれもついている事だろう、あまりにも有名なピアノにまつわる悲話をめぐっての記事だった。シロウトの印象批評だから所詮外堀を巡るばかりのものでしかないのは無理もないことだとは思っている。それゆえ今回も、アルバムの作品を取り上げるといったところで同じような結果になるだろうことは言うも更なりではあるのだけれど。≪・・・かれが、ピアノで作曲する作曲家という、現在ではすでにまれな種族のひとりであるかぎり、かれの全作品は、このピアノのあやしげな響きの中から、けむりのようにたちのぼってくるのだ。そして、彼のピアノ曲は、たとえばあるピアニストへのイメージ 2おくりものというかたちをよそおうばあいも、じつはこの特定の楽器、「かれの」ピアノにささげられているのではないだろうか。≫(解説・高橋悠治)余韻の独特に聞く音の響きのゆくすえへのこだわり、ピアノにまつわる悲話を思えば、これも言いえていると思える。捧げものとしての音楽!
≪音がきえてゆく、ということは、それがでてきたところへかえっていくこと。言のすみかは沈黙。武満徹の音楽には、よびおこされる音がたどるみちのかげに、無数の音のねむりをかくした沈黙のいえのさえぎられることのないなめらかな運動がききとれる、とは思わないか≫(同上)誰しもがこの余韻の深さを武満の音楽に聞きとるのだ。戦後まもないアヴァンギャルド芸術集団の実験工房へ出入りするうちに父のように慕い、また≪精神的な支柱≫でもあったシュルレアリスト美術評論家・詩人の瀧口修造の詩にもとづいて作られた、として知られる「遮られない休息」。このアルバムには50年の<Ⅰ>、そして9年後の59年に作曲された<Ⅱ>および<Ⅲ>を聴くことで、その変化成熟を聴くことができる。≪第1曲は「ゆっくりと悲しく、語りかけるように」、第2曲は「静かに残酷なひびきで」と指定され、アルバン・ベルクにささげられた第3曲は「愛のうた」と題されている≫(同上)そうであるけれど、そうした知識がなくても、やわらかいロマンな響きから、その余韻を求める資質をのこしながらの硬質でワイドレンジな対比的響きへと変移してきているのが了解されることだろう。それはたぶん作曲技法上の成熟でもあるのだろう。ところで、タイトルに採られている「遮られない休息」と題された瀧口修造の詩は1937年に発表した詩画集「妖精の距離」の中の詩で、以下の詩句をもつ

   「跡絶(とだ)えない翅(はね)の
    幼い蛾は夜の巨大な瓶の重さに堪えている
    かりそめの白い胸像は雪の記憶に凍えている
    風たちは痩せた小枝にとまって貧しい光に慣れている
    すべて
    ことりともしない丘の上の球形の鏡」

ひじょうにシンボリックであり、凝結した静謐、張りつめたひりつく静寂を感じさせる。

ところでB面の「コロナ」(1962)。この曲は、このアルバムの演奏者高橋悠治の1962年のリサイタルへ贈られた作品だそうである。ところで、この作品の〔ロンドン版・1973〕とされているパフォーマンスを、オーストラリア出身の現代音楽の名手ロジャー・ウッドワードで以前マイブログで『ロジャー・ウッドワードによる武満徹のピアノ作品集 『武満徹の音楽』 (1974)』と題して取り上げた。それには≪A面すべてを占める「コロナ」(1962)〔ロンドン版・1973〕。これは≪ピアノ2台とオルガンそしてハープシコードがウッドワードによって演奏されマルチプルにレコーディング≫されたもの。スコアーは、デザイナー杉浦康平とともに制作された美しい図形楽譜であり≪赤色、青、黄、灰色、白の五枚の色彩の正方形の紙片に円形、点、直線などで記譜されている。奏者は同心円の中心の切込みを合わせて演奏する。しかも各紙片には、赤(抑揚のスタディ)、黄(アーティキュレーションスタディ)、灰色(エクスプレッションのスタディ)などといった、それぞれの特色が指示されており、作曲者は「この曲を演奏するピアニストは、特に色と形にセンシティヴであってほしい」と記≫されているそうである。ここにも図形楽譜という不確定性の導入であっても、≪生き生きとした音の状態≫をうみだす想いはそれら指示のなかに貫かれている。ウッドワードの特殊奏法を的確につかってのコスミックな余情の世界、広がりと余韻のうちに音の行く末をじっくりと見定める精神性あふれるパフォーマンスは、これはこれで優れてセンシティヴに見事な作品として聴かせる。完全にといってもいいくらいにロジャー・ウッドワードの世界であり、それゆえに〔ロンドン版・1973〕ということなのだろう。≫と記した。≪デザイナー杉浦康平とともに制作された美しい図形楽譜≫による不確定要因・偶然性を抱き込んでの演奏ゆえか、またヴァージョンの違いもあってかずいぶんと印象が違って聞こえるのは興味のあることだ。今回の高橋悠治の演奏は、彼一人の多重録音によるものとコメントされている。≪ウッイメージ 5ドワードの特殊奏法を的確につかってのコスミックな余情の世界、広がりと余韻のうちに音の行く末をじっくりと見定める精神性あふれるパフォーマンス≫に較べ、ある意味、余韻に独特な武満の濃密な情緒性を意図的に排除しているように私には聴こえた。硬質で乾いているのだった。まさにこのことは献呈され初演した1962年とは10年の時の隔たりがある自らの≪おそらく作曲者も予知しなかったような可能性の発見であり、したがって演奏者から作曲者へのおくりものである。≫(同上解説・高橋悠治)のを証明するパフォーマンスとして興味深い。おそらく、大方の聴者が抱いているタケミツトーンへのイメージに近いのはウッドワードの方だと私には思える。もちろん私もだが、さて如何なものだろうか。

 
                                コロナ・グラフィックスコアー